「会社で落ちこぼれる人の口ぐせ 抜群に出世する人の口ぐせ」 吉田典史さんの書籍
日本橋人形町で奮闘する
社会保険労務士の庄司英尚です。
今日は、少し前の八重の桜から新島襄が
徳富蘇峰(猪一郎)へ贈った言葉の意味とその歴史
背景についてまとめてみました。
言葉を贈られた状況については省略したいところですが
一応おおまかに記載しておきます。
徳富蘇峰(猪一郎)の弟は、後の有名な作家
徳富蘆花(健一郎)で、2人とも同志社英学校で学んで
おりました。
後に2人とも偉大な人物として名を残しています。
徳富蘇峰はジャーナリストとして、国民新聞 主宰
のちの東京新聞のルーツの1つとなっています。
徳富蘆花は、明治の文豪です。 「不如帰」でベストセラー
となり、その後も作品を残します。のちに
「黒い眼と茶色の目」という小説を発表し
山本久栄(山本覚馬と小田時栄の娘)との
失恋について自伝風に書きます。この失恋経験が
あったからこそ、不如帰のような素晴らしい
作品がうまれ、国民から共感を得たといわれています。
いずにれにしても
その2人の原点は、この同志社英学校であったことは
確かであり、新島が与えた影響は大きかったといえます。
徳富蘇峰(猪一郎)は、熊本バンドを結成し、同志社に
転入してきました。
その後、弟の徳富蘆花(健一郎)も同志社に
入学してきたあとに、クラスの合併問題が起きたのです。
そこで新島襄は、悩みに悩みます。解決の道はないのですが
学生中心の運営を大事にした新島襄は、自らのことを責めます。
そこで新島は、集まった学生たちを前にしてこう言いました。
「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあ
ります。したがって校長である私は、その罪人を罰します。」
そう話し終わると襄は、右手に持っていた杖を振り上げ、
自身の左手を叩き始めました。
何度も何度も激しく叩き続けたため、襄の左手は赤く腫れあ
がり、杖が折れ手も続けました。学生たちは心を
動かされ、涙ながらに襄の自責を制止したそうです。
これが有名な「自責の杖」事件です。
蘇峰は、結果的にストライキ騒ぎを扇動した責任をとって新島襄が引きとめた
にもかかわらず同志社を退学します。弟 蘆花 もたしか蘇峰の退学の翌月に
退学するのですが・・・。この2人はその後、皮肉なことに仲の悪い兄弟として有名に・・。
その際に新島襄が徳富蘇峰に贈った言葉
写真の裏に書いたとされています。
「大人(たいじん)とならんと欲すれば、自ら大人と思うなかれ」
意味は、こちらのサイトによると
http://blog.livedoor.jp/shin1917russ/archives/53921479.html
「蘇峰君よ、君は自分が大人と思っているかもしれないが、大人になりたければまずその考えを捨てなさい。」
大人というのは、大物というような意味らしいです。
温厚だった新島が、怒っていたけど
あえてこの言葉を贈って
気づいてほしかったこと。
謙虚さを忘れるなということ、奢り高ぶるなと
いうことなんだと思います。
そういう意味ではそれまでの経緯から考えると
ほんとうに懐の深い人で、ほんとうに新島襄は、
すごい人物だと思います。
有名な「自責の杖」事件は、上記のとおりですが
八重の桜 でもやはり出てきましたね。
自責の杖事件とは? ご存知の方も多いのですが、
↓ 念のためリンク
http://www.junk-word.com/taiga-drama/xn--45q26vi8ak8r71wtv0atmbn3vgll/002018.html
自責の杖事件は 同志社の人なら
誰でも知っている新島襄らしさをあらわしているエピソードです。
立命館の人だと、知らない人が多いかもしれません。
京都大学の人だと半分くらいでしょうか・・・。
新島襄のような教育者が、現代においているだろうか?
この事件が起きた当時は、社会は大きく動こうと
していました。
自らのことを犠牲にしても志の高い人を育成する
教育へ取組む姿勢は、立派だと思います。
体罰などが当たり前のように行われ、教育者として
恥ずかしいふるまいをする人が増えた今日。
決して他人のせいにはしないで、問題解決をあきらめない
精神を新島襄から受け継いでいくべきだと私は思っております。
現代の教育者も新島襄から学ぶべきことはたくさんありますので
自責の杖事件に限らず、この時代の教育の改革にまつわる
いろいろ歴史を勉強してみるのもよいのではないでしょうか。
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社会保険労務士 庄司英尚