2021/06/08 本年度第3回ガバナー会を、今回もリモートで開く
2020/07/06
何故、ロータリーのいう「職業奉仕」が分かりにくいのか?
それは、自らの職業を行うことを、他者に対する奉仕と同じく奉仕と観念しようとするからである。
では、ロータリーは、職業奉仕を何だというのか?
ロータリー章典によれば、「あらゆる職業に携わる中で、奉仕の理念の実践をロータリーが培い、支援する方法である。」ということである。
しかし、この概念規定(定義付け)は難解きわまる。
一般の人に理解できるように、何故「職業倫理」のことだといえないのか?
職業奉仕の概念規定が難解であるため、これまで、職業奉仕を語るロータリアンは、模式図まで作って、汲々、その意味の解説に時間を費やしすぎたように思われる。
そのため、職業奉仕すなわち職業倫理の実践論が語られることは、ほとんどなかったのではないか。
それに、職業奉仕概念が生まれた時代は、20世紀もまだ開けたばかりの時代、今から100年も前の時代である。
ポール・ハリスがロータリークラブを創設した1905年という年は、彼の言によっても、澆季混濁(ぎょうきこんだく)の時代、すなわち道徳が衰え乱れた時代のように思われる。
そのような時代であったからこそ、職業倫理である職業奉仕の教えを説くことが、ロータリーの最重要課題とされたのだと思われる。
しかし、100年も経った21世紀の現在、社会は、また、職業人は、職業を行う場合、職業倫理を高く持することは当然のこととした上で、ESG投資に代表される新たな価値の創造が求められる時代になっているのである。
だから、これからのロータリーは、職業奉仕の概念論は止めて、職業奉仕という言葉を使わないで、いわば七歩の詩をもって、中味である職業奉仕(職業倫理)の実践論(当然、職業倫理の高さに、時代が求める価値の創造を加えたもの)を語るべきと愚考する。
七歩の詩とは、すなわち、三国志で有名な曹操の長男である曹丕が、魏の皇帝(文帝)になった後のある日のこと、弟の曹植に対し、七歩あゆむ間に兄弟という言葉を用いないで兄弟のことを作詩せよ、それができれば許すが、できなければ死罪に処すと命じた詩文のことである。
これに対し、曹植が作った詩は、
煮豆燃豆萁(豆を煮るに豆がらを燃やす)
豆在釜中泣(豆は釜中にあって泣く)
本是同根生(もとよりこれら同根より生ずるを)
相煎何太急(あい煎ること何ぞはなはだ急なる)
というものであるが、この詩は、「兄弟」という言葉を使わずして、兄弟のことが、そのうえに曹丕と曹植の関係が、それぞれの置かれた立場が、そして曹植の心情までが、手に取るように分かる内容になっている。
これまでも多くのロータリアンは、それぞれの職業において、自らが経験によって得た知見に、叡知を加え、七歩の詩、すなわち、社是、社訓、経営指針などを作っているものと思う。
その中には既に、ときに名文として、ときに処世訓として、ときに天の啓示に等しい箴言(しんげん)として、価値を認め、後進の座右の銘とされているものも多くあるはずである。
だから、これからのロータリアンは、職業奉仕を、概念論で言うを止め、七歩の詩というべき社是や経営指針などに描かれた実践論をこそ、語るべきではないかと考える。
【観念と概念の違い】
観念とは、個人が主観的に考える意味内容をいい、概念とは、社会的にほぼ共通している認識の枠組みをいう。観念が主観的な思い、概念が客観的な意味づけと覚えると分かりやすい。
この日記で「澆季混濁(ぎょうきこんだく)」という言葉を使った理由については、
https://mbp-japan.com/okayama/kikuchi/column/5060389/
をご覧ありたし。
「汲々 」→ 一つのことに努めて、他を顧みないさま。あくせくしてゆとりにないさま(大辞泉)