弁護士と格言 口論乙駁は,コンセンサスを求める場にふさわしからず
大阪夏の陣で、豊臣家は滅亡したが、その原因に諸説あり、見る人によって異なる。
もし家康に、早い時期から、豊臣家を滅ぼす意思があったとすれば、1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収めた時が、機会であったといえよう。
しかしながら、家康は、関ヶ原の戦いが終わった直後、関ヶ原の戦いは豊臣家とは関係なく、秀頼にも淀君にも責任はないと内外に告げた(このとき、淀君は驚喜し、家康の温情に涙を流している。)ことや、1603年には目に入れても痛くない孫娘千姫を豊臣秀頼にめあわせていること、それに、1605年秀頼には二代将軍秀忠より上の右大臣の官位(織田信長の生前最高の官位にして、家康が征夷大将軍になった時の官位。家康(この時満63才)は、その官位を秀頼(この時満10才)のために空け、征夷大将軍になっている。)を秀頼に得させていることなど、豊臣家に最大限の好意を表しているのであるから、家康には、豊臣家の存続を望む意欲は認められこそすれ、滅ぼす意思があったなど到底考えられない。
淀君の怒りの元
そのような徳川家康の温情を受けながら、淀君は、1605年に秀忠が二代将軍位についたとき、秀頼を二代将軍に会わせることを求めた家康の要請を、怒りの感情を爆発させて拒否したが、何故か? この時、淀君満36歳。
私が推測するには、淀君は、秀吉の正室ではなく、側室(身分は奉公人)の一人でしかない。正室は、ねね(北政所。この時高台院と名は変わる。なお、北政所とは三位以上の公卿の一般名称であるが、戦国時代を語る際の北政所といえば秀吉の正室ねねを指す。ねね自身、皇室より従一位の位階を頂く。女性では最高の身分)であった。淀君は、浅井長政とお市の方の間に生まれた長女という出自の高貴さを誇り、ねねを足軽頭の娘と軽く見たいが、正室高台院(この時満56歳で、)の身からただよう気品と威厳と温容さには、遠く足下にも及ばない。加えて、高台院と家康は、共に泰平の世つくるという高い目標をもち、互いに信頼し合っている関係にあるため、関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧の武将の多くは、家康側つまり東軍に付き家康を勝利させている
このような立ち位置にいる高台院は、家康が、秀頼に上洛して秀忠と並び、諸大名の挨拶を受ける(実質的には、徳川家に対し臣下の礼をとる儀式)ようとの要請をした際、秀頼の母たる立場(秀吉在世中高台院が正母になっている。)から、淀君にそうするよう要請をした。また、秀吉子飼いの武将の多くも、豊家存続のため、それを淀君に望んだ。
この状況下で、淀君は半狂乱の状況に陥り、家康の要請(秀頼を二条城に来させること)を峻拒したのであるから、そのときの淀殿は、高台院への嫉妬などの感情の鬼になっていたものと思われる。
それは、その後、すなわち、1611年になって、家康が新帝即位式のための上洛の際、秀頼に会いたいと思い、二条城まで来るように要請した際、淀君が今度も高台院が口出ししているのかと、織田有楽斎に質問し、そうでないと分かると、今度は淀君も簡単に承諾した経緯に照らしても明らかであろう。なお、この1611年のときは、秀頼が二条城に赴き家康と懐かしい再開を果たし、家康の要請は聞き入れられた。ただ、その席に高台院もいて、秀頼が高台院とも涙の再会を果たしたことが、そしてそれを淀君が知ったことが、次の不幸につながっていったが、・・・。
なお、この淀君の怒りの感情について、山岡荘八は小説「徳川家康」の中で、取り乱した反抗心と評し、また、もし淀君が正室であったとすれば、そのような状態に陥ることのない婦徳高い人になったであろうに。と不幸な生涯になった淀君に温かい愛情を注いで、語っている。
とまれ、1605年の秀頼の上洛を拒否した淀君の心情は、政治的なものではなく、高台院に対する側室としての引け目、高台院の婦徳に対する嫉妬であったものと思われる。
さて、ここで結論めくが、このときの淀君の怒りの感情が、秀頼を上洛させない結果になり、徳川家の武将の多くが持っていた関ヶ原以後の鬱勃たる感情の火に油を注ぎ、大阪冬・夏の陣の遠因になっていったものと思われる。
その意味で、激気が、大事を誤る、ことになったのである。