弁護士の心得 専門に特化しながら、専門外から謙虚に学ぶべし
次に韓信がいます。
彼は軍事の天才です。
故事成語にまでなった背水の陣を敷くなど、それまでの常識を覆すような戦術も編み出します。
韓信は、元は項羽軍にいた人物で、項羽が亜父と敬称する范増から、その才能を認められるのですが、范増が項羽に韓信を重用するか、重用しないのなら殺すように諫言しましたが、項羽がこれを聞き入れなかったことから命拾いをし、劉邦の陣へ走っていった人物です。
その他にも、劉邦側には、陳平や蕭何がいました。
陳平は、漢帝国が成立した後、丞相にまでなり、劉邦の皇后・呂后の一族である呂雉が、劉家(漢)の主権を横奪したとき、これを粛正し、劉家の漢帝国四百年(前漢・後漢合わせて)の基礎を築くほどの業績を残しております。
蕭何は、有能な臣です。
楚漢の戦いでは、兵站部を受け持ち、食料の確保と兵の募集に能力を発揮します。
漢の軍勢が戦いの中、食料に窮すること一度もなかったのは、彼のおかげです。
一方、常勝の軍であった項羽は、あと一息というところで、いつも食料に窮し、撤退することを繰り返しました。
このように、劉邦側は、有能な人材が集まっていたのです。
一方、項羽には、軍師として范増がいたのみです。
では、項羽は范増を唯一無二なものとして、彼を重用したかというと、そうではありません。
前述のように、項羽は、范増から、韓信を重用するか殺すかするように言われても、これに従わず、また、いわゆる鴻門の会で、劉邦が命乞いに来たとき、范増から、劉邦を殺すように執拗に勧められるのですが、これも取り上げませんでした。
このように、項羽は、数少ない良き将がいても用いず、しかも軍師としては唯一といってよい良臣・范増も、やがては劉邦側の策(范増が劉邦と通じているとのうわさを流す策)で、項羽と離間させられるのですから、項羽には、兵法の分かる人材はいなくなるのです。