弁護士と格言 蟹は甲羅に似せて穴を掘る
経綸とは、国家を創る理念であり、かつ、国家百年の大綱のことです。
ところで、戦国時代を終息させた、徳川家康の願いとしてきたのは、平和の招来と維持でした。
その実現のため、家康は、次のような経綸をもって政治を始めます。
1 原初的な法理の誕生 ー 土地は天からの預かりものという観念、ここから、所有権概念の否定
応仁の乱以後、秀吉や家康が天下を統一するまでは、他人の領土を奪うことは、戦国武将の正義でした。斬り取り勝手の時代だったのです。
これが戦乱の原因になったことから、徳川家康は、戦乱の芽を摘むため、原初的法理ともいうべき考え方、すなわち、土地は幕府が天から預かったもの、また、幕府はこれを一部は幕府が使い(「天領」といわれる直轄地)、他は各藩に封土として預け、各藩に使用を許すという概念(考え方)を作り出します。
現代的、法律論的にいいますと、所有権を否定し、使用貸借権を設定したのです。
各藩は、幕府から預かった土地(封土)を管理し、封土に住む人民を治めるが、治め方が悪いと、幕府から改易(取り潰し)されることになります。実際、徳川幕府の時代(江戸時代)を通して、多くの藩が改易されるに至っております。
土地は預かりものという考えの下では、他藩の領土を侵食することなど許されません。
そうなれば、国内では領土争いの戦争は起こらない理屈になります。
それを前提に、家康は、各藩には、城の増改築を禁じます。隣国と戦うための城は必要ないからです。以後、江戸時代を通じて、隣国同士の戦いはなくなりました。大阪夏・冬の陣は領国争いとは異質のものです。
もっとも、国家的、国防的見地から、必要があれば、築城を許します。関ヶ原の戦いで西軍に付いた毛利家であっても、萩に築城することを許しているのです。
2 経済力と政治を近づけない
次に家康が考えたことは、弱肉強食の時代にならないように、強者を政治権力に近づけないことにしました。百万石や数十万石という石高を預かった大藩には、政治に近づかせないことにしたのです。その反対作用として、政治権力を行使できる者は小藩の藩主になっています。
百万石を預けられた加賀の前田家は、政治権力を振えず、政治権力を振える譜代は、ほとんど十万石を超えることはないというのも、その政策によるのです。
3 道義立国と原初的な法治主義と成典憲法
徳川家康は、士農工商という身分制度、というよりも職階を設けます。
士とは、武士のことです。家康は、武士には他(農工商)の師表として奉公することを求めます。“武士は食わねど高楊枝”の矜持を求めたのです。
そのため、家康は、治世の教学として、儒教を奨励普及させます。それだけでなく、家康自身、儒学者林道春に師としての礼をとり、儒教に教えを受けます。林も、儒教の教えを受ける家康の答えが十分でないと考えるときは、厳しく家康を叱責します。そして、講義が終わると、林道春は、師に座から降りて、はるかかなたの下座に座り、家康に対し臣下としての礼をとるのです。
家康は、百姓の“斬捨てご免”も禁じます。
そのため、家康は、成典憲法ともいえる、武家諸法度や禁中並公家諸法度を作ります。
家康は、道義(儒教精神)の下に、この成文法によって、国を治めようとしたのです。
ここには法治主義の萌芽が見られるなど、近代日本の面目躍如たるものがあります。
4 富国への道
家康は、国土を広げます。日本的規模での干拓・灌漑・治水の事業です。
利根川東遷事業などは有名です。
外国との貿易も増やします。
豊臣時代の朱印船の数とは桁違いの朱印船の建造を、家康は商人(大富豪)に許しています。
平和の招来こそが、家康の目標であり、祈りであったのです。
5 人材の養成
徳川家康は、人材の養成に力を入れます。まずは、身近にいる家臣の養成に力を注ぎます。