2021/01/14 2021年を占う 7 M&Aがますます増える
2020/09/20 「嚢中の錐」の語源
昨日の日記に、菅新総理大臣のことを、「嚢中の錐」と書いた。
今日は、その「嚢中の錐」の語源を書いておきたい。
語源は、司馬遷の史記「平原君列伝に書かれた次の文である。
すなわち、
「平原君曰、夫賢士之處世也、譬若錐之處囊中、其末立見。今先生處勝之門下、三年於此矣。左右未有所稱誦、勝未有所聞、是先生無所有也。先生不能、先生留。毛遂曰、臣乃今日請處囊中耳。使遂蚤得處囊中、乃穎脱而出。非特其末見而已。平原君竟與毛遂偕。」
(読み)
「平原君いわく、それ賢士の世におるやたとえば錐の嚢中におるごとく、その末たちどころにあらわる。今、先生(毛遂のこと)、勝(しよう:平原君のこと)の門下におること、ここに三年なり。左右、いまだ称誦(しょうしょう)する(ほめたたえる)ところにあらず。勝もいまだ聞くところあらざるは、これ先生有するところなきなり。先生あたわず。先生とどまれ。毛遂いわく、臣(毛遂のこと)、すなわち今日、嚢中におらんことを請けうのみ。遂(毛遂のこと)をして早くに嚢中におるを得しめば、すなわち穎脱(えいだつ)していでん(錐の先が突き抜けて袋の外にぬけ出るであろう)。ただにその末のあらわるるのみにあらず、と。平原君、ついに毛遂とともにす。
(解説)
趙の平原君が楚の国へ外交交渉に行くことになった。このとき平原君は自らの食客の中から、平原君を助けてくれる有能な人物20人を同行させようとし、19人までは選んだ。
しかし、最後の一人を決めかねていたところへ毛遂が現れ、自分を連れて行くよう申し出た。
このとき、平原君は、毛遂に対し、「賢人とは、錐を嚢中に入れておくようなもので、才能ある者の才能は、やがて錐の先が囊から出てくるように周囲の人には見えてきて評判になるものだが、毛遂先生は私の所へ着て3年になるのに評判を聞いたことがありません。」と言って断った。すると、毛遂は、「私のことは今日、嚢中の錐になったと思っていただきたい。私がもっと早くから嚢中に入っていたら、あなたは私の錐の先が出るのを見るだけではない。もっと早くに私の能力の高さ気がつかれたであろう。」と答えたのである。
平原君は、毛遂のこの答えが気に入り、毛遂も同行させて楚の国へ行き、毛遂の相手国の王を説得する弁のおかげで、目的を達成した。
これにより、平原君は帰国すると、毛遂を上客としたということだ。
要は、「嚢中の錐」の語源は、司馬遷の「史記」に書かれたこの一挿話ということである。