2021/02/22 難問を受ける
2020/07/25 誉誉褒褒は、巧言令色にあらず
私は、多様性の実践論を、誉誉褒褒と定めた。その正反対にある毀毀貶貶とはおさらばだ。
なお、誉誉褒褒も毀毀貶貶も、「毀誉褒貶」という言葉から作り出したわが造語だが、実に分かりやすく使いやすい言葉ではある。
前者は、人の美質、麗質を探し出して、その人を褒める言葉、後者は、人のあら探しをして、その人を貶す言葉として作ったのである。
なお、私がいう誉誉褒褒は、「巧言令色少なし仁」でいう巧言令色とは違う。
その違いは、前者、誉誉褒褒は、誰がそばで聞いても、一人で微笑みが浮かんでくるような褒め方である。それは、鋭く、褒められる人物の美質、麗質を捉えた言葉だからだ。
一方、巧言令色は、阿諛追従(あゆついしょう)、つまりはおべっかのことだから、そばで聞く者が顔をしかめてしまうものになる。前者は、心のある、また、好意に満ちた褒め方であるのに対し、後者は、底意を隠した、うわべだけの心のない褒め方である。
だから、巧言令色、少なし仁といわれるのだ。
すなわち、巧みに言葉を操り、顔を美しく装って近づくような人間は、真心のない人間だということだ。
その点、誉誉褒褒を守っている者は、周りの人から顰蹙を買うことはない。多くの場合、周りの人を含めて、爆笑の渦をつくることもあるのだ。
習(なら)い性(せい)という言葉がある。これは、「習い、性となる」からきた慣用句であるが、意味は、習い、つまり習慣は、続けていけば、おのずと性、つまり性質になるというものである。読みは「習い、性となる」と区切って読む。つまり、誉誉褒褒も、初めのうちは、無理をして、努力をしてする習いであってもよい。これを習慣にしてしまえば、勝ちだ。自らの体の中に、人の美質、麗質を探そうとする習慣はできる。これができると、世界が広がる。あんちくしょうめ、嫌な奴だ、失敗を探して、欠点を言い立てて、悪口を言ってやろう、などという自分を貶めるような発想は、百パーセントなくなる。それは毀毀貶貶を習慣としてきた私が言うのだから間違いはない。私は、昔は、毀毀貶貶を趣味のようにしていた男だ。しかし、毀毀貶貶を続けると、周りの人が全部敵に見える。だれかが私の悪口をいっているように思えてくる。要は、疑心暗鬼が心に生まれ暴れ出すのだ。そうなってしまうと、疲れる。心が乱れる。自分の顔にトゲが生えてくる。圭角が立ってくる。顔も暗くなる。いつもビクビクする。このような不利益を考えるだけで、毀毀貶貶なんてことあ、やっていられないことが分かる。そこで、私は、百パーセント、方針を変えて、逆のこと、つまりは誉誉褒褒を習慣化してきたのである。いや、正しくは、習慣化するべく努力を始めたのだ。そうすると、周りの人に笑顔が現れてくる。私の心に喜びが湧く。落ち着いてもくる。すべてがうまくいく。私のような能力のない者でも、ガバナーに推薦してやろうって思ってくださる人まで現れる。もし、私がいまだに毀毀貶貶を習慣にしておれば、ガバナーどころか、ロータリアン誰からも、歯牙にもかけられない哀れな人間でしかないことになっただろう。だから、誉誉褒褒がよい。これだけは、確信をもって言いうる。