弁護士と格言 口論乙駁は,コンセンサスを求める場にふさわしからず
(2)篤実に生きることが、織田信長との同盟を支えることを知ったこと
家康は、信長との同盟時代、信長の信頼を疑わせるようなことは、何一つしていません。
それどころか、本能寺の変の直前、信長は、家康を堺見物に招き、最大の接待をしているくらいの、篤い信頼を寄せているのです。
信長は、猜疑心が強く、その猜疑心を持ったときは、直ちに、“殺す”という行動に移すほどの人物です。
荒木村重の謀反のとき、黒田官兵衛が、村重を翻意させるために有岡城に赴くも逆に囚われの身になると、信長、これを官兵衛の裏切りであると猜疑して、人質となっている官兵衛の長男松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じます。
これも、信長の猜疑心のなすところです。
(なお、黒田松寿丸を殺せとの命令は、竹中半兵衛が、命をかけた、殺したという嘘の報告をすることで、実行はされませんでしたが。)。
「疑心暗鬼を呼ぶ」という言葉がありますが、人の心の中に生まれた疑心が、鬼を呼び、その人を苦しめることをいいますが、信長の疑心が生んだ暗鬼は、殺害に直行する危険な暗鬼のようでした。
とまれ、このような猜疑心の強い信長に、臣従する立場ではなく、対等の同盟者としての立場で、20年もの長い間、良好な関係を築いていった家康。見事というほかありません。
恐らくは、家康、この同盟期間中、家康の武力のみならず、人格が、いかに努力をすれば、低く見られず、軽く見られず、頼りにされるか、いかに生きることが、家康に対する信頼を強めてくれるか、その人と力をあてにしてくれるか、を考えつづけ、実践しつづけたものと思われます。
信長の怜悧、信長の猜疑心の前では、見せかけの誠実性や篤実性は、すぐ馬脚を現します。
家康は、見せかけではなく、真実、信長に対する信頼と尊敬の念を持ち続けて、20年間を、生き抜いたものと思われます。
この間、恐らく、家康自身が驚くほどの成長を、家康自身、遂げていったものと思われます。