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家康成長の軌跡③ 人質時代に学んだこと

菊池捷男

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テーマ:歴史と偉人と言葉

2 学んだこと
 家康は、ある日、乞食の親子かと思った親子に道を尋ねられます。
母親は、松平家の家老の娘にして、高天神城の戦いで広忠(家康の亡父)の身代わりになって死んだ先代本多忠勝の妻。子は後の徳川四天王の一人本多忠勝です。
二人は、家康(当時は松平元康)の元服用の衣服をもって家康を訪ねてきたのです。
家康、このような身分の高い武士の親子ですら乞食同然の姿でしかおれない、三河の現実の一端を知ります。

 三河の国は、今川義元の家来が岡崎城の城代として支配し、租税名目で民の膏血(こうけつ)(人の脂肪と血液。転じて、乏しい財産)を絞り、織田との戦いには徳川家(当時は松平家)の武士を捨て駒に使います。
 今川の支配下に置かれた三河では、民も武士も、今川の兵が、三河の民の家に無遠慮に侵入し、そこの娘に父親の知れない子を生ませ、そのためその家の娘が自害しても、ただ、天に訴え地に哭す以外、恨みを晴らすことも再発を約束させることもできない状態に置かれているのです。

 この人質時代、家康が学んだことは、強くなければ生き残れないという現実です。
生き残るために、あらゆる屈辱に耐え抜いてきた家臣団の結束です。
 それに、この家臣団の結束と強さを宝として、また、武器として、敵と戦い、領民をまもらなければならないという、三河の領主としての責任の大きさです。

 家康は、生涯を通じ、“堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。”という言葉を言い続けていますが、この時期の経験からも、また、それ以後の経験からも、人をつくり人を育てるのは、堪忍の二字であることを、悟ったものと思われます。

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