弁護士の心得 「できません」は禁句。「こうすればできます」で答えるべし。
二 織田信長との同盟時代
1 二十年の歩みの概略
(1)織田信長と同盟を結ぶ(1562年)
家康は、今川義元が桶狭間の戦いで首を打たれた後、義元の後嗣氏真の元へは戻らず、1562年に、織田信長と同盟を結びます。
それを知った今川氏真は、家康の裏切りだと言って憤り、家康側から取っていた人質を殺します。
殺された人質とは、家臣の妻子です。
家康の正室と二人の子は家臣によって救出されますが、家康、戦国の酷さを知ります。
(2) 三河一向一揆に苦悩する
1563年、領内でいわゆる三河一向一揆が起こります。
これには徳川家臣団の一部が加わり、家康は、家臣より直接に刃を突きつけられ、怒り心頭に発しますが、母於大より、家臣を斬ることは自分の手足を斬るに等しいことになることを教えられ、家臣を殺しません。
ただ、説得に尽くします。
その効(かい)があってか、この一揆は、一向宗の宗徒の中から、一揆を起こした理由に疑問を持つ者が出るなどして、半年ほど後、自然に終息します。
(3)今川家を滅ぼすが殺さず
織田信長と同盟を結んだ家康は、東に勢力を広げていきます。
そして、1569年、武田信玄と連携して、今川氏真を降伏させ、戦国大名としての今川家を滅ぼし、今川領は武田信玄と二分します。
弱国は簡単に隣国によって滅ぼされるという、戦国時代の冷厳たる事実が、今川家に見られます。
しかし、家康は、氏真を殺さず、保護します。
後、氏真の子は徳川家の旗本になって江戸幕府に仕えますが、家康は、生涯を通じ、無用な殺人はしていません。
氏真が、家康の家臣の妻子を殺したことを思えば、氏真を殺して敵を伐つということができたはずですが、家康はそのような感情による行動などはしません。
不殺。すなわち、人を無用に殺さないこと。
これは、家康の性格か、あるいは人心収攬の術かは、分かりませんが、家康が天下を支配することになる天質として、知っておくべきことと思います。
この天質は、信長にはなく、晩年の秀吉にも見られません。
この天質は、第一章に書いた劉邦の、包容力があって人を生かす、という性格と共通するところです。
(4) 浅井、朝倉攻め
織田信長は、1570年、浅井朝倉責めを敢行し、家康は援軍を出します。
最初は、朝倉に対する金ヶ崎の戦いです。
この戦いでは、織田徳川方が、浅井長政の裏切りにより窮地に立たされますが、羽柴秀吉が殿(しんがり)をつとめた、迅速な撤退戦で、危機を脱します。
続いて、同年、浅井朝倉両軍を相手とする姉川の戦いになります。
ここでは、援軍である家康軍五千が、劣勢だった織田軍を助け、浅井、朝倉とも滅ぼします。
(5)三方ヶ原の戦い
1573年、上洛を目的に、信州を離れた武田信玄軍は、浜松城に籠もる徳川家康を攻めず、その北を、猛禽の目をもって静かに西へ進みます。
しかし、家康は、わが頭を跨がれたほどの屈辱感を持ち、浜松城を出、信玄に戦いを挑みます。
これが、三方ケ原の戦いですが、家康、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)(鎧に触っただけで負けてしまう)で敗北します。
家康は、馬にしがみついて逃げるに必死になり、恐怖のため、馬上に脱糞するほどだったとされるものになっています。
しかし、家康、この敗戦により、強くなります。
敗北が家康を強くしたのです。
家康は、終生、この三方ケ原の敗戦で、おおいに学んだと言い続け、武田信玄をたたえます。
その武田信玄は、三方ヶ原で勝利したものの、その直後、野田城責めのとき、陣没します。
(6) 長篠の戦い
信玄亡き後、信玄の衣鉢(いはつ)は勝頼が継ぎます。
1575年、長篠城の城主が、武田方から徳川方に身を転じたことが原因になって、徳川・織田連合軍と武田勝頼軍との間に、長篠の戦いが開かれますが、徳川・織田軍が勝利します。
(7) 長男信康を切腹させる
1579年、家康、長男の信康を、信長の命により切腹させるという試練を受けます。
(8)武田家滅亡(1582年)
1582年、徳川・織田連合軍は、武田勝頼を天目山まで追い詰め、ここに武田家は滅びます。
(9)本能寺の変(1582年)
1582年、本能寺の変が起こり、織田信長が横死します。
ここで、徳川、織田連合時代が終わります。
20年間という長きにわたり、長男信康を殺した信長と、同盟を結び、この期間、一瞬といえども同盟にひびが入るということのない関係を築いてきた、家康の人間性のすごさ。
これは、いったいどう考えたらよいのか?
凡慮の及ぶところではありません。