弁護士の心得 専門に特化しながら、専門外から謙虚に学ぶべし
2 この期間での特筆すべきこと
(1)弱国は生き残れないこと
ア 今川家の滅亡
今川義元が桶狭間の戦いで敗れたときの兵力は3万人でした。
その版図は、駿河国、遠江国、それに三河国に及ぶ強大なものでしたが、それも十年経ずして、消滅します。
義元の後を継いだ氏真が、弱将だったからです。
イ 武田家滅亡
武田家を嗣いだ勝頼も、同じ運命をたどっています。
(2) 織田信長の性情は、被害者にもなれば、加害者にもなる危険なもの
ア 荒木村重の謀反
1578年荒木村重が、信長に対し、謀反を起こします。
理由は、信長ですら分かりません。
今日では、信長が石山本願寺と戦っているとき、村重の家臣が裏面から本願寺側に兵糧を売っていたことが発覚したことが因となって、気の小さい村重が信長より征伐されることを恐れて、謀反を起こしたものと推定されています。
しかし、真相は、謎とされています。
イ 家康の長男信康を切腹させる
1579年、信長は、 家康に命じて、家康の長男信康を切腹させています。
この理由も、謎になっています。
ハ 古参の家臣の追放
1580年、信長は、大坂本願寺勢を降伏させた直後、本願寺攻めの総大将であった譜代の臣の佐久間信盛親子や筆頭家老の林秀貞らを、いきなり追放しています。
佐久間信盛に対する追放の理由としては、信長自身、十九箇条にのぼる叱責状を書いていますが、その中には、信盛が24年前に信行(信長の弟)の謀反に荷担したことを挙げております。
しかし、この時期に何故24年前のことが追放の理由になるのか分かりません。
信行の謀反に荷担したのは、柴田勝家も同様ですが、勝家についてはなんらのおとがめがなかったのですから、信長が叱責状で書いた理由は、やはり謎というほかありません。
ニ 本能寺の変
1582年、信長は、家臣の明智光秀が起こした本能寺の変で殺されます。
この事件を起こした明智光秀の動機も理由も、現在まで謎です。
なお、本能寺の変を予見した武将がいます。
毛利方の武将であり僧侶でもあった安国寺恵瓊という人物です。
彼は、本能寺の変の前、信長を評して、「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。」という言葉を残していますが、これなど、本能寺の変のような信長の横死を予想したものと思われます。
彼が、信長の横死を、何を根拠に予測したのかも謎です。
これらは謎としても、明確にいえることは、荒木村重も、佐久間信盛も、林秀貞も、明智光秀も、信長の家臣であったものばかりです。
また、松平信康も、信長の娘婿にして、同盟軍家康の大切な長男です。
言わば、彼らは全員、信長の味方ですので、殺したり、追放したり、殺されたりする関係には、なかったのですが、・・・
主君と家臣の関係については、孫子の言葉、「輔、周なれば、則ち国必ず強く、輔、隙あれば、則ち国必ず弱し」がありますが、この孫子の言葉を鏡にして、ここに映った信長という人物を、改めて眺めてみますと、信長は、到底、強い国をつくることなどできる人物ではなかったことは明らかです。