弁護士と格言 蟹は甲羅に似せて穴を掘る
2 イギリスとヒトラー
(1) ウインストン・チャーチルの予言
1932年7月、ウインストン・チャーチルは、先祖である初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツのミュンヘンに行きます。
ここで、国家社会主義ドイツ労働者党(国会での第一党)の党首であるアドルフ・ヒトラーの側近から、ヒトラーとの会談を勧められ承諾しました。
しかし、チャーチルが、このヒトラーの側近に「なぜヒトラーはユダヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか」と質問したことが、ヒトラーの機嫌を損ねたらしく、会見は実現しませんでした。
ウインストン・チャーチルは、このとき、ミュンヘンの街を、ナチスの若い親衛隊隊員が、報復を叫びながら興奮して行進していく様を見、同年11月23日、イギリス下院で、ドイツの報復主義に駆られた若者が、いつか必ず、フランス、ベルギー、ポルトガル、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどを侵略し、これら国々を危険にさらすであろうと予言し、イギリスも軍備を増強して備えるべきことを獅子吼して警告しますが、政府は相手にしません。
(2) ヒトラー、政権に就くや、他国を侵し始める
このウインストン・チャーチルの下院での演説2か月後の1933年1月、ドイツにヒトラー首相が生まれます。
ヒトラーは、翌1934年に、ドイツの大統領権限を兼ねた国家元首になり、1935年、ヴェルサイユ条約の破棄を宣言して再軍備を開始します。
1938年3月、ドイツは、同じ民族国家のオーストリアを併合し、ズデーテン地方(チェコスロバキア領)のドイツへの割譲を要求し始めました。
(3)イギリス政府の対応
1936年6月、イギリス(ボードウィン内閣)は、ドイツと英独海軍協定を結び、ドイツの再軍備を承認します。
ドイツのズデーテン地方のドイツへの割譲要求に対しては、無視しました。
(4) イギリスのとった融和策と王室と国民の考え
イギリス(チェンバレン首相)は、ナチス・ドイツとの間で、1938年9月、ミュンヘン協定を結び、ドイツにそれ以上の領土の要求をしないと約束させたうえで、ズデーテンのドイツ領有を認めます。
このチェンバレンのミュンヘン協定の締結は、イギリスの王室、国民とも、大喜びです。
イギリスとドイツが、戦争をすることはなくなったと考えたからです。
イギリス国王ジョージ6世は、ミュンヘンから帰ってきたチェンバレン首相に対し、国王夫妻と共に、バッキンガム宮殿のバルコニーから、国民の歓呼に応える特権を与えたほどです。
(5)ナチス・ドイツのさらなる侵略
ドイツ軍は1939年9月1日にポーランドへ侵攻を開始しました。
国内でも、ナチスは、ユダヤ人、自由主義者、社会主義者、共産主義者、キリスト教の指導者を、殺害、投獄、国外追放などしています。特に、ユダヤ人に対しては、民族の絶滅を目的に殺戮し、ドイツのホロコーストでは、第二次世界大戦が終わるまでに、730万人のユダヤ人のうち570万人が殺されています。
(6) イギリスのした宣戦布告
事ここに至って、チェンバレンも下院議員からの突き上げを受け、1939年9月2日にドイツに宣戦布告します。続いてフランスもドイツに宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が開かれました。