弁護士と格言 口論乙駁は,コンセンサスを求める場にふさわしからず
一 第二次世界大戦とウインストン・チャーチル
1 ウインストン・チャーチルの履歴
(1)誕生、幼年期
ウインストン・チャーチルは、1974年、父ランドルフ・チャーチル(第7代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの三男)、母ジャネット・ジェローム(アメリカの富豪の娘)の長男として生まれています。
父ランドルフ・チャーチルは、有能な政治家でしたが、他人とは容易に折り合えない性格だったようで、1886年、ウインストン・チャーチル十二歳の時、イギリスの財務大臣になりますが、わずか4箇月後辞任し、ここで政治家人生を閉じ、1895年ウインストン・チャーチル21歳の時亡くなります。
(2)軍籍
ウインストン・チャーチルは、1894年、20歳の時、女王直属の騎兵隊将校になり、銃弾の飛び交う戦場にも出ています。
(3)政治家
ウインストン・チャーチルが初めて、下院議員選挙に当選したのは1900年、26歳のときです。保守党から立候補したのです。
しかし、1904年、30歳のとき、保守党が保護貿易を政策として掲げるようになったことに反対し、自由貿易を政策として傾げる自由党に移ります。
その自由党時代、ウインストン・チャーチルは、財務大臣になります(1908年。34歳)。
さらに、1910年には内務大臣になり、1911年には海軍大臣になります。海軍大臣の時代は、軍備の増強に力を尽くし、海軍航空隊を創設します。
1914年、第一次世界大戦が勃発し、ウインストン・チャーチルは海軍大臣として、アントワープ防衛戦を指揮します。
1915年、ウインストン・チャーチルは、ダーダネルス戦の失敗により海軍大臣を罷免され、ランカスター公領担当大臣に左遷されますが、すぐにその地位から辞任します。
1917年、ロイド・ジョージの挙国一致内閣ができたとき、軍需大臣になり、政権に復帰します。
この時期、ウインストン・チャーチルは、塹壕戦が、いたずらに人命を亡くすることから、人命の喪失を最小限にすべく、戦車の開発に力を注ぎます。
なお、昔のハリウッド映画の「西部戦線異状なし」は、塹壕戦の悲惨さを描いたものです。
1918年11月、第一次世界大戦が終わりを告げます。
1924年11月に第2次ボールドウィン内閣が発足したとき、保守党に戻り、財務大臣になります。
しかし、1929年5月マクドナルド労働党政権が生まれてから以後は、1940年まで閣僚の席に着くことはありませんでした。
1940年5月10日、チェンバレンが首相を辞任した後を継いで、イギリス首相になります。
以後第二次世界大戦が終わるまで、イギリスを指導していきます。