弁護士の心得 専門に特化しながら、専門外から謙虚に学ぶべし
ここまでに、徳川家康の残した処世訓のこと、法の箴言のこと、を書いてきたが、処世訓も箴言も、実に意味深い言葉になっている。それは、その言葉を作り出した人の、経験と学問によって得た知識と、そこから生まれた知恵の作用だといってもよいであろう。
アレキサンドル・デュマは、「哲学とは,あらゆる学問とあらゆる経験の双和なのだ。」というのであるから、処世訓も箴言も、哲学が導き出した人生行路の道標、といえるのかもしれない。
さて、ここに哲学者を自認する者が、哲学の力で依頼者の捜し人を捜し得たという話があるので、紹介しよう。
これも小説(シェンキェーヴィチ作「クオ・ワディス」) での話しであるが・・・・・。
時代は西暦一世紀のこと、場所は暴君ネロ帝が支配していた古代ローマ。
この小説の主人公は、リギヤという一人の少女。リギ族の姫君である。
ある時、ネロ帝の寵臣の甥に当たる貴族ウイニキウスが、リギアを一目見、たちまち、そのギリシャ的・彫像的な美しさに惹かれ恋をした。
その後、リギアは姿を隠す。
恋心をいだいたウイニキウスは、リギアを捜すが容易に見つからない。
そこへ、自らギリシャ人の哲学者を名乗るキロンという人物が来る。
キロンは、リギアがかつて魚の絵を砂の上に描いていたという一事から、その絵に込められた意味を解き、推論に推論を重ねて、リギヤの行方を突き止めていった。
この時、キロンは、リギアを発見したのは哲学の力だというのであった。
だが、作者シュンケビッチは、“哲学よりも徳義を学べ”とキロンに向って言う。
それは、キロンがかつて友人(医師)を強盗に襲わせて瀕死の重傷を負わせ、その財産を奪い、かつ、友人の妻子を奴隷として売り飛ばした、悪徳漢であったからである。
ここで、哲学者を自認するキロンのために一言弁護しておきたい。
悪徳漢であったキロンではあるが、彼は、リギアの行方を追ううちに、キリスト教徒たちの生き方を見、使徒ペテロやパウロに接し、また、上記友人から命を助けられたうえ、“我、汝を赦す”と言われたことなどから、良心の芽ばえといおうか、心に変化が生じてき、ローマ大火の犯人とされて闘技場で生け贄にされる、キリスト教徒たちの、あまりに残酷な見世物として死を目にした時、突然、その不条理を怒り、闘技場にいた多くのローマ人に向かって、皇帝ネロが最も恐れること、すなわちローマ大火の原因になった放火はネロの命令でなされたことを、ネロを指さしながら、告発したのである。
その結果、キロンは、その場で火あぶりに処されたが、不思議なことに、キロンの心は、その瞬間が、最も豊かで、かつ、平静であったものらしい。
この心の変化、改心とでもいおうか、は、無論、哲学によるものではない。
なお、事のついでに、この小説の主人公リギアの運命にも触れておく。
ネロは、リギアを捕らえ、ローマの闘技場で猛牛の角に縛り付けたまま、猛牛をしてリギアの忠実な僕(しもべ)巨人ウルススを襲わせた。
ウルススは、闘技場の中央で、驀進してくる猛牛の角を押さえ、猛牛の動きを止め、猛牛とどちらが先に力が尽きて敗れるかの戦いを始めた。
猛牛は、土を蹴っても前に進めず、ウルススは、足が土にめり込むほどに猛牛に押されながらも、一歩も下がらず、いずれも体の筋肉をはち切れそうになるほどにうねらせて、力の限り押し合うが勝負がつかない状態になった。
しかし、やがて、闘技場の観客数万の中から、大きな感動の声が、雲霞のごとく湧き上がると共に、観客総立ちとなって、手の親指を上に挙げ、ウルススを助けよ!ウルススを助けよ!との声声声の波がわき揚がった。
その直後、ウルススが渾身の力を振るうと、ボキッという音がして猛牛の頸の骨が折れて勝負がついた。
その結果を見、群衆の叫びを聞き、暴君ネロは、ウルススとリギアを開放するほかなく、かくてリギヤは救出されたのである。
この後の小説の展開は、書籍でご覧いただきたい。
小説、「クオ・ワディス」は、作家シェンケビッチが、第一次世界大戦前の、大国によるポーランド分割などの支配を受け苦悩している自国民ポーランド人を、古代ローマ時代のキリスト教徒に擬し、ネロやその一味を、ヨーロッパ世界を覆う暴力の勢力(当時は弱肉強食の時代)に擬し、ポーランド国民の勇気を鼓舞するため書いたとされる小説である。
シェンケビッチは、同書その他に書かれた叙事詩的名文により、ノーベル文学賞を受賞しているほどの作家である。