弁護士と格言 口論乙駁は,コンセンサスを求める場にふさわしからず
戦国時代の、権門にある武将や、その家族には、宿命的な通弊があった。
これが最もよく分かるのは、菊池寛が描いた「忠直卿行状記」であろう。
忠直は、大坂夏の陣より8年前、父結城秀康の後を継いで、満12歳でにして67万石の越前藩の大封を継いだ。少将忠直卿の誕生である。この忠直、菊池寛に言わしめれば、家臣からは腫れ物に触るように仕えられ、我が儘いっぱいに育てられ、ときどきは狂的な癇癪を起こすという人物であった。その忠直は、大坂夏の陣が終わった後のあるとき、剣においても槍においても、誰と試合をしても必ず勝つほどの、越前一の実力者である、と忠直自身信じていたことが、偶然にもこれら(家臣との試合での勝利)が家臣の作為によるものであったことを知った。
彼が家臣たちの阿諛と追従の中で生きており、剣においても槍においても他のことにおいても、家臣から勝ちを譲られてきた事実を知った後、彼は変わった。家臣に対する疑いの念が勃然と起こったのである。そこで、彼は、自分の実力を知りたいと思い、家臣と真剣や真槍で試合をする。しかし、家臣は、忠直の真剣に斬られ真槍に突かれ、その後で切腹する始末で、彼は自分の実力を知り得ない。囲碁をして勝った相手の老臣が忠直は強くなったと褒めた言葉さえ疑い、老臣に碁石を投げつけるや、その老臣も主君に疑われたことを怒り切腹した。彼は老臣の切腹の意味すら分からない。そのような中で、忠直は常軌を逸した行動を取り始めた。手当たり次第に家臣を斬り殺す。無辜の領民を殺すなどであるが、忠直卿ご乱心は幕府に聞こえ、ついに忠直は改易となった。その後は、九州の豊後に流され、幕府から1万石を給され、その後二十数年を経て、満55歳で死去した。
この歴史的な事実からみても、一国の領主というものの“裸の大様”ぶりが分かろうというものである。裸の大様であっては、“今そこにある危機”は、容易なことでは予知できないであろう。怒りが原因で信長に切腹させられた信康しかり。半狂乱が原因で、やがては大坂夏の陣により子の秀頼共々あえなく死んでしまうという淀君も、怒りがそのような危機を招くということは予知できなかったであろう。
しかし、家康は、処世訓として、「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」という言葉を、この時代に残している。
この言葉が、信康の切腹後であることを考えると、信康の不幸から学んだ言葉かもしれない。
人は、悲しいことに、経験しないことは知り得ない存在である。
しかし、悲しい経験をした先人からは、残した言葉によって学ぶことは可能である。
ただ、家康の「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」という言葉だけを聞かされた程度では、万人に十分とはいえないが、人によっては、この言葉からでも、予知能力を養う契機になると思われる。
実際、先人の歩んだ後の残した言葉、格言、箴言、諺などになっているもの、なっていないものの中には、味わい深い言葉もある。
人が経験できることは、余りに少ない。そのため、先人の経験や、そこから生まれた“言葉”からも、学ぶべきであろう。今そこにある危機に備えるためにも。