弁護士と格言 口論乙駁は,コンセンサスを求める場にふさわしからず
関ヶ原の戦いは西暦1600年、これに勝利した徳川家康は1603年に征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。同年、家康は目に入れても痛くない孫娘千姫を豊臣秀頼にめあわせ大阪城に送る。この時、千姫実に満6歳の幼児。また、秀頼は満10歳の子供。1605年家康は将軍位を三男秀忠に譲る。この少し前、家康は朝廷に奏して秀頼の官位を右大臣にしてもらう。この官位は秀忠より上。秀忠が将軍位を朝廷より受けるため、16万人の軍兵をつれて上洛した際、家康は、秀頼を二条城に来させ、秀忠と二人して上座に据え、大勢の国持ち大名から挨拶を受け、戦国時代が終わったこと、徳川と豊臣は、一方が将軍、他方は公家として、共に太平の世を切り開いていくのだという姿勢を見せるべく、秀頼に上洛を求めるが、秀頼の生母淀君の感情的反対で実現せず。家康、不快の念を抱くが、気持ちを変え、六男忠輝を、秀頼の見舞いという形で大阪城に行かせる。
家康には、豊臣家を滅ぼす意思は微塵もなく、豊家存続を腐心し続けるが、この時の淀君の怒りの感情が、その後の大阪冬の陣・夏の陣の遠因をなすという結果を引き起こしている。
正に、激気、大事を誤った例といえよう。
これに対し、家康、堪忍こそ大事の心組みを忘れない。
家康の処世訓、“堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。"は常に実践されてきているのである。