弁護士と格言 口論乙駁は,コンセンサスを求める場にふさわしからず
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
これは徳川家康が残した、処世訓ともいうべき言葉です。
激気大事を誤る。
これは、吉川英治が、作中の人物の一行動を捉えて、評した言葉ですが、激気というのは、怒りの感情を爆発させることです。
いずれも、怒りの感情をもって、言ったこと、行ったことの結果が、取り返しのつかない悲劇を生むということですが、この言葉は、現在でも、多くの人の苦い経験として、理解できるものではないかと思います。
さて、徳川家康が生きた時代は、戦国時代です。ここでは、怒りが、どのような結果を引き起こしたかの例を探すことは、困難ではありません。その例を若干紹介いたします。
1 築山御前と家康の長男信康の例
築山御前は、今川義元の姪にして、家康の正室です。二人の結婚は、家康が今川義元の人質になっていた時期で、いわば義元に押しつけられた政略結婚の妻だったのです。
年齢は、何歳か、築山御前の方が上、ということもあって、築山御前は、駿府から岡崎城に移ってきてからも、権高で、自分の出自に誇りをもち、義元の人質であった家康に対し、上から目線で接します。そのため、家康も、築山御前に対しては、極力、敬して近寄らずという態度をとります。それが、築山御前を欲求不満にしていきます。
そのような中で、家康と築山御前の間に生まれた長男信康が、織田信長の長女徳姫と結婚します。無論、これも政略結婚です。
築山御前は、この結婚には強い不満を持ちます。それは、信長が、桶狭間の戦いで伯父今川義元を伐(う)った憎い敵であったからです。
築山御前のその思いと感情は、家康への日頃の不満の感情も合わせて、信康の妻になった徳姫に向けられます。
信康は、覇気があり、戦国武将としては、すぐれた資質を有していて、家康の期待していた長男でしたが、その膝下に置いて教育するということをしなかったこともあり、同居している母築山御前の影響を知らず知らずのうちに受け、妻である徳姫につらく当たる事が起きてきます。そのような時期、信康は、徳姫に対する怒りの感情を、徳姫付きの侍女に向け、徳姫の目の前で、侍女の口に刀を差し込み、手でその顎を砕くという残忍な方法で殺害します。
戦国時代の妻は、いわば相手国へ放った間諜(スパイ)の役目をもっていますので、築山御前や信康の言動は、ことごとく、徳姫付きの侍女から、信長の耳に入ります。
しかし、この段階では、信長も、信康を殺すことまでは考えませんでした。信長が信康を殺さなければならないと考えたのは、信康が、鷹狩りに行き、獲物が少なかったことに気を腐られていたとき、たまたま出会った僧侶を見、鷹狩りの獲物の不猟は僧侶がいたためだと理屈を付け、その僧侶を殺したことと、信康が、その僧侶の殺害につき、家臣から諫言された時、自分は僧侶を殺したが岳父たる信長は石山本願寺の信徒多数を殺害していると発言していたことを、信長が徳川家の重臣から聞いた時です。
この時、信長が言います。俺が、石山本願寺の兵をを殺したのは、彼らが俺の覇業を妨害するため、刃を向けたきたからだ。要は、殺さなければ殺される戦争の中で殺したのだ。俺は無辜の民を、殺したことなど一度もない。信康は、この違いすら分からないたわけ(たわけ=バカ)か!と怒り、徳川家の重臣にそのことを言いました。
信康は、戦いで敵を殺すことと、鷹狩りの不猟を理由に罪なき僧侶を殺すことの違いすら分からないほどのたわけであった。これでは、信長を怨嗟し、その怨念を口にする築山御前と同じ城に住んでいて、いつなんどき、武田勢と手を結び、織田軍と敵対するかも分からない人物ではないか。と考えたから、家康に対し、信康は可愛い娘の婿であるが、切腹させても苦しからずという言葉を、伝えるのです。事実上の切腹させろという命令を家康に伝えたのです。
かくて、家康は、築山御前を家臣が殺害することを黙認し、信康を切腹させたのです。家康は、終生、信康を喪ったことを悔やむのですが、悔いて及ばじです。