弁護士と格言 蟹は甲羅に似せて穴を掘る
徳川家康は、戦国時代、三河は岡崎城主の子に生まれ、母との生別、父との死別という悲風の中、幼くして駿府の今川義元の下に人質となって十数年間、辛酸を舐め、耐えることを学びます。
桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことを契機に、今川家の頸(くびき)から脱出しますが、今川方に人質として囚われていた家臣の家族が殺されるなど、戦国の酷さを骨肉に刻み、強くならなければ生き残れないという現実を知ります。
やがて織田信長と同盟を結び東に勢力を伸ばすも、武田信玄との三方原の戦いでは完膚なきまでに敗北し、戦いに勝つには勝つべき戦いをしなければならないという当然の事理を教えられます(この敗北という学びが、家康という強い戦国武将をつくったとされています。)。
領内で一向一揆が起こり、それに家臣団の一部が加わり刃を突きつけられ、怒り心頭に発するも、家臣を斬ることは自分の手足を斬るに等しいことになることを教えられ、苦悩します。
正室築山御前を避け、長男信康の鍛えを怠ったことの咎めから、信長の命により築山御前を死なせ、信康を切腹させるという断腸の苦しみを味わいます。
一方で、信義を重んじ20年以上にわたって信長との連合関係を維持します。
やがて、本能寺の変。
信長の死後の織田家の家督相続紛争で、豊臣秀吉が勝利するも、彼に膝を屈することなく、義によって信長の子の信雄を支援し、小牧長久手の戦いで秀吉と戦い、引き分けます。
その時の家康の端倪すべからざる実力を知った秀吉は、家康と戦うことの愚を悟り、妹朝日姫を離縁(離婚)させて家康に嫁がします。
それでも、大阪に出て来ない家康に、ついに秀吉、朝日姫見舞いの名目で母大政所を、事実上の人質として送ります。
その後、家康は、豊臣家の五大老の一人として、秀吉の天下統一を助けます。
やがて、秀吉は、"露と落ち露と消えにし 我が身かな。 浪速のことは 夢のまた夢"という言葉を残して鬼籍に入ります。
その直後に起こったのが、関ヶ原の戦いです。
家康は、これに勝利し、ついに念願の戦国の終息を実現するのです。
それから、家康は、秀吉との生前の約束に従い、目に入れても痛くない孫娘千姫を秀吉の子秀頼に嫁がせます。
それをなし遂げて、家康は、伏見から江戸へ発つのです。
朝廷から許しを受けての、徳川幕府開府のためです。
江戸へ発ったのは1602年すなわち慶長7年10月23日。幕府開府は、慶長8年2月のことです。
家康は、経綸、すなわち、国家百年の大綱(実際、260年以上戦争のない国家を築く。)を胸に秘めて出立したのですが、これは、近代日本の幕開けといってよいでしょう。
それまでの期間は、言わば家康の戦国武将としての活躍の期間であると同時に、家康の人間修養の期間であり、雌伏の期間だったのです。
徳川家康の本領が発揮されるのは、実に、関ヶ原の戦いの終結後、日本国の政治を任された時からです。
したがって、家康の価値の創造も、この時から始まります。