公取委がやってきた!
1 財閥の禁止がもたらした、財閥マイナスイメージ
我が国では、戦後すぐ(昭和22年)、GHQ(連合国軍最高司令部)の要請により、独占禁止法が制定されましたが、その第9条で、純粋持株会社(コンツエルン)の設立が禁止されました。
この純粋持株会社というのは、戦前に見られた財閥の法形式に当たりますので、独禁法9条で禁止したコンツエルン設立の禁止は、財閥の解体を意味するところとなり、コンツエルンの禁止をその一内容とする独禁法の制定は、財閥=悪というイメージを醸成することになったようです(もし、現在も、財閥=悪というイメージがあるとすれば、それは多分に誤解によるものであり、正しいものではありません。解説は以下のとおりです。)。
2 禁止の理由
しかしながら、もともと独禁法は、アメリカの反トラスト法に倣って作られたものですが、反トラスト法は、別にコンツエルンを禁止してはいませんでした。
にもかかわらず、GHQが、我が国にあって純粋持株会社を禁止したのは、我が国の財閥が、明治維新以来の我が国の富国強兵策(日清・日露の両戦争、第一次世界大戦及び太平洋戦争に見られる我が国の軍事力)を支えたとの認識を持ち、その軍事力を恐れたからだとされています。
3 アメリカ資本主義の要請による金融ビッグバンと純粋持株会社の解禁
アメリカは、戦後、アメリカの事業団体連合(民間)を通して、平成6年からは直接政府から、毎年、年次改革要望書を我が国政府に送ってきています(鳩山内閣時代一事停止をしました)が、我が国もいつしか経済大国といわれるほどの経済力を身につけ、家計の金融資産が1200兆円を越すまでになった平成8年(なお、現時点すなわち平成28年末の家計の金融資産残高は1800兆円になっていますー日銀報道)、我が国政府に対し、金融市場の解放を要求するようになりました。
この時、政府は、独禁法9条の純粋持株会社の禁止規定の撤廃をアメリカに承諾させて、それと引き替えにアメリカ企業の金融市場への参入を認めました。
かくして、平成9年、独禁法は改正され、純粋持株会社(コンツエルン)の設立を可能にしたのですが、以後、純粋持株会社が増えていきました。
商号の中に、「ホールディグス」という言葉が入っている会社は、「ホールディングス」を持株会社の意味で使っていますが、この中には、純粋持株会社ばかりではなく、一部自らも事業をする事業持株会社もあります。
4 金融ビッグバンの中身
金融ビッグバンは、フリー(市場原理が機能する自由な市場)、フェアー(透明で公正な市場)、グローバル(国際的で時代を先取りする市場)の3つの原則を掲げた金融政策です。このとき、証券デリバティブの全面解禁、銀行等の投資信託の窓口販売の導入、株式売買委託手数料の完全自由化、インターネット証券会社の新規参入、保険価格の自由化、会計制度の国際標準化等が導入されるに至りました。
5 年次改革要望書
年次改革要望書は、現在、正しくは、「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」という名称で、日米対等な立場で要求し合うものですが、過去、米国側からの要望が施策として実現した例としては、建築基準法、著作権法、独占禁止法、労働者派遣法などの改正や、新たな制度として、法科大学院の設置、郵政民営化、裁判員制度などの司法制度改革など多岐にわたります。
一方、日本側からアメリカ側への要望はほとんど実現されていない模様ですが、前述のように、持株会社の解禁は、金融ビッグバンを受け入れる条件にしたもようです。
参考:
なお、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「年次改革要望書」には、アメリカからの要求により我が国受け入れた改革の例として、次のことが書かれています。
1997年(平成9年)独占禁止法が改正される。持株会社が解禁される。
1998年(平成10年) 大規模小売店舗法が廃止される。大規模小売店舗立地法が成立する(平成12年(2000年)施行)。建築基準法が改正される。
1999年(平成11年) 労働者派遣法が改正される。人材派遣が自由化される。
2002年(平成14年) 健康保険において本人3割負担を導入する。
2003年(平成15年) 郵政事業庁が廃止される。日本郵政公社が成立する。
2004年(平成16年) 法科大学院の設置と司法試験制度が変更される。労働者派遣法が改正(製造業への派遣を解禁)される。
2005年(平成17年) 日本道路公団が解散する。分割民営化がされる。新会社法が成立した。
2007年(平成19年) 新会社法の中の三角合併制度が施行される。
6 我が国の明日の法制度
これは、日米の間に取り交わされる、年次改革要望書を読むと予見できるものと思われます。