2021/03/10 渋沢栄一には、叱られる理由はなかった
2020/10/15 米山梅吉ものがたり② 梅吉の幼少時代
米山梅吉は、1868年(明治元年)、まだ江戸時代、高取藩の上級藩士和田竹造の三男として、江戸の藩邸で生まれた。
当時の日本の総人口は3300万人。
やがて、時代は大きく変わり、高取藩は廃藩置県により奈良県(の一部)になり、和田家は平民になる。
梅吉は、校長がお寺の住職であった小学校に入学したことから、小学生で漢学を学び始める。
9歳のとき、地元の名士であった米山家(先祖を辿れば駿河の守護今川氏の旗本で、400年も続く家柄)の養子になる(後年米山家の一人娘と婚姻する)。
この時代は、アメリカの南北戦争(1861~1865)を北軍勝利に導いた名将ユリシーズ・S・グラントが、アメリカ合衆国の大統領になり(1869~1877)、国賓として日本に来た(1879)時代である。
やがて、時代は、鹿鳴館時代になる。
すなわち、鹿鳴館(ろくめいかん)とは、日本の外務卿井上馨による欧化政策(アメリカとの間に結ばれた不平等条約の改正などを狙ったものも含む)の一環として、1883年(明治16年)に建設された西洋館のことであるが、それ以後の時代を「鹿鳴館時代」といい、そこで踊った井上馨夫人、陸奥宗光夫人、大山巌夫人などは「鹿鳴館の華」といわれたもの。
梅吉は、養子になった後、キリスト教の影響を強く受けた沼津中学校に進む。
この沼津中学校で教育を受けたことが、梅吉生涯の誇りになる。
生涯の友を得、「水魚の交わり」を始めている。
なお、梅吉は、後年、「幕末西洋文化と沼津兵学校」と題した著書を上梓しているが、沼津兵学校とは、梅吉が学んだ沼津中学校の前身である。
いかに、沼津時代が彼の人格形成に大きく影響したかがわかろうというもの。
折しも、時代は、自由民権運動が盛んになっていった時代でもある。
梅吉は、板垣退助など自由民権運動(1874年に始まり、1881年明治天皇が10年後に国会を開くこと、憲法を制定することの詔を発するに至る)の闘士などの演説を聴く環境下にいて、10歳代の若者らしく、自らも弁じ、かつ、論ずるなどをしたのである。
梅吉が14歳の時、「頴才新誌」という雑誌に、漢詩を踏まえた批評文が投稿しそれが搭載されたこともあるほどであった。