人も,後継者も,いつまでも,呉下の阿蒙にあらざるなり
人は、その人自身の知識と経験の制約の中で、ものを見、ものを考え、ものを語りますので,どうしても,管を通して天を覗くに似た,狭さが伴います。
その狭さから抱いた見解を「管見(かんけん)」といいますが,人の管見は、人たる所以より出でたるものですから,決して、恥じるものではありません。
ところで、人には、面白い一面があり,他人の管見が、自分自身の管見より狭いとみた場合,自分自身のことを忘れ,他人の管見を,ときに嗤い、ときに笑うのです。
これを、“目糞、鼻糞を笑う”といいますが,経営者は、己の考えが管見であることを知り,他人の意見からは学べるものを学ぼうとする習性をもっていますので,目糞も鼻糞も意識することはなく,したがって,目糞も鼻糞も笑うことは決してしません。
似た言葉に,井蛙の誇り(せいあのほこり),という言葉がありますが,これは“井の中の蛙,大海を知らず”という言葉を縮めただけの言葉です。
無論,経営者に,井蛙の誇りとそしられるようなものは,あろうはずはありません。
優れた経営者が,多くの場合,謙虚で高潔であるのは,この所以です。
実は、この“目糞、鼻糞を笑う”姿を、悪意をもって眺めれば,引かれ者の小唄か、不遇へのぼやきか、非力な我が身の弁護か、小人(しょうじん)の閑話のような絵にしか,見えないかもしれません。
チャーチルは、「人生における最も偉大な学びは、愚かだと思った考えさえ、ときには、彼らが正しいこともある、と知ることだ。」という語録を残していますが、愚かだと思う他人の考えの中でさえ学ぶことがあると考えると,人間を捉えて,“笑う”というのは,問題ありというべきでしょう。
経営者たる者,“威儀を正くして、人を軽侮せざらしむべし”ということなのでしょうか?
ずいぶん昔のことですが、あるプロボクサーが、世界選手権を戦って勝ちました。そのときのインタビューで、ボクサーは、最初から最後まで、戦った相手のボクサーを褒めるのです。自分が,そのような強い相手に勝てたことは、幸運以外のなにものでもないと、謙虚に答えたのです。
それから何十年か経ってのことです。現役を退いてもなお名声の残っていた彼は、テレビで、そのときのことを、世界選手権で勝利したから、相手のボクサーを褒めることができた,もし、負けていたら、相手の批判をしたであろうと述懐したものです。
“勝負に勝つ者,人生で成功を収める者の言や麗し”です。