遺言執行者観に関する謬説がなくなるまで①
東地判平10.6.29事件
この事件は、子のない被相続人Aが、大脳左側被殻外側出血のため倒れ、意識不明となり、3日後に開頭による血腫除去手術を受け、リハビリテーションを受けるまでになったが、運動性の失語と精神活動の低下があり、簡単な会話は理解できていたが、発語は少なく、あっても意味の分からない言葉になってしまう状態であった。
その後、Aは、言語障害が軽快し、日時や場所については正確な見当はないものの、知人、甥などの親戚はある程度認知可能であった。また、自己の身体の状態、今後の療養等について思いをめぐらすことができる程度の精神能力には至っていた。しかしながら、Aは、運動性失語がなお残存し、複雑な会話は不可能な状態が継続しており、その結果、論理的、抽象的思考の障害にも及んでいた。また、このころから意欲の喪失と自発性の欠如が目立つようになり、日常生活は無爲で、知的能力も低下しており、複雑な書類の内容を理解することは困難であった。
それ以降も、その状態にさほどの改善はみられず、言語能力はわずかに軽快したものの、知的能力の回復の兆候はなく、記憶力及び記銘力の障害並びに一般的常識的知能及び抽象的思考能力の低下が緩やかに進行し、運動性失語状態のほか全般的知能及び判断力の低下を伴う軽度の痴ほう状態にあった。身体的にも、右不全片麻痺の状態がほぼ固定し、歩行は依然不能のままであった。
このような健康状態の中で、Aは甥夫婦やその子らとの間に複数の養子縁組を結んだ。この養子縁組は、その後裁判で無効とされた。
判決理由には、「Aは、本件縁組の当時、その知能及び思考力は著しく障害されていて、身分関係及び財産関係に重大な影響を及ぼすこととなる養子縁組の意味、内容及び効果について、これを一通り理解することができるだけの意思能力を有してはいなかったと認めるのが相当である。したがって、本件縁組は、当事者間に縁組をする意思の合致がないものとして、無効というべきである。」と記載されていた。
問題の遺言書もこの頃作成されていたが、前記東地判は、養子縁組が、その当時、「その知能及び思考力は著しく障害されていて、身分関係及び財産関係に重大な影響を及ぼすこととなる養子縁組の意味、内容及び効果について、これを一通り理解することができるだけの意思能力を有してはいなかった」のであるから、養子縁組をするのと同程度の意思能力を必要とされる遺言についても、その意味、内容及び効果を理解することができるだけの意思能力を有していなかったと認めるのが相当である。そうすると、Aは遺言能力を欠く状態にあったというべきである。遺言は無効である、と判示された。