バーの扉を開けた、きまぐれな春〜今日から始める5月病対策〜②〜 山梨 漢方 5月病 さわたや薬房
〜前回までのあらすじ〜
初夏の爽やかな朝、駅へ向かっていた「僕」を突然の便意が襲い、駅構内の清流沿いのトイレに駆け込む。事なきを得たと思った瞬間、股間にふと違和感を覚えるも気のせいだと出社。ところが仕事中、下着の異様な湿り気に気づき確認すると、股間から下着、ズボンまで真っ赤に染まっていた。正体はまさかの「ヒル」の咬傷。後輩に付き添われ泌尿器科を受診した「僕」は、若き織田裕二似の医師から、それが「ヤマビル」によるものだと告げられる。あの駅トイレのすぐそばを流れる清流こそが落とし穴だったのだ。出血は止まりにくく、しばらく安静にと言われ、そのまま早退することに。股間に妙な違和感を抱えながら駅へと歩き出した・・・
駅に向かう道すがら、ふと目に入ったのは、以前から気になっていた古本屋だった。
最近はブックオフのような古本屋が多いのだが
見た目はクラシカルな、ある意味ストロングスタイルな古本屋スタイルで、神田などにいけばまだあるのだろうが地方都市では絶滅したと思われていたタイプの古本屋がその街にまだ残っていた。
電車まで時間があったことと、今朝からの一連の出来事のせいで、頭も体もどっと疲れていた僕は、何か気を紛らわせるものが欲しくて、吸い込まれるように店内に足を踏み入れた。
それはあまりにもクラシカルな、ストロングスタイルの古本屋だった。
新書のコーナーをぼんやりと眺めていると、「夏におすすめの一冊」という手書きのポップ(ポップと言うにはあまりにもクラシカルなものであったが)が立てられた棚が目に入った。
季節の陳列をするあたり、見た目とは裏腹に店主にはまだ多少の商売っ気が残っているようだ。
旅行記や小説に混じって、一冊だけ妙に浮いている本があった。
『夏のキャンプ徹底攻略!それいけ!害虫対策編』
なぜだか僕は、その本から目が離せなくなった。
まるで、その本の方から僕を呼んでいるかのようだった。
今日という日にこの本と出会ったのは、単なる偶然なのだろうか。
それとも、これは股間をヒルに噛まれるという体験をした僕への何かしらのメタファーなのか?
そんなことを考えながら、迷わず僕はその本を手に取り、初老の男性が座るレジへと向かっていた。
「350円です。現金しか使えませんが。」
と言われる前に僕は「当然現金のみだろう」と思っていたので最近使わなくなった小銭入れを財布から取り出す準備をしていた。
久しぶりに役目を果たした小銭入れから350円を取り出し僕は男性に支払いをした。
「ありがとうございます・・・・その本、なかなかおもしろいですよ。特にヒルに関する部分はちょっと珍しいので・・・」
っと言われて僕は背中に汗が流れる感覚を覚えた。
「・・・・ヒル、ですか?」
「そう、あの血を吸うヒルね。面白いですよ。」
電車の時間も迫ってきていたのでそれ以上の会話はせず、僕は軽く会釈してその店を去った。
股間に違和感を感じながら駅のホームへと急ぎ僕は1時間に3本しかない普通列車に乗り込んだ。
都会の人からしたら信じられないかもしれないが多く地方の駅の電車の本数なんてそんなものなのだ。
そして、電車のドアの開閉はボタンで行うことも都会の人は知らないだろう。
ローカル線にはローカル線のルールというものがあるのだ。
そんなローカル電車に揺られながら、僕は古本屋で購入した本をむさぼるようにめくった。
普段なら仕事に関連する書籍か、ちょっとした娯楽小説くらいしか読まない僕が、こんなにも夢中になって活字を追うのは久しぶりのことだった。
目次を眺めていると、「ヒル・ヤマビル対策」という項目が目に飛び込んできた。
僕は迷わずそのページを開いた。あの老人が言っていた箇所だ。
本によれば、まず知っておくべきは「ヒル」と「ヤマビル」の違いだという。
日本には百種類近いヒルが生息しているが、そのすべてが血を吸うわけではない。
ミミズのように落ち葉の中の小さな生き物を食べて暮らす種類もいれば、水中で生きる種類もいる。
僕にはぼくの生活が、ネコにはネコの生活が、そしてヒルにはヒルなりの生活というものがあるらしい。
今回僕を襲ったのは、その中でも「ヤマビル」と呼ばれる種類で、シカやイノシシ、サル、そして人間などの哺乳類の血を吸って生きているのだそうだ。
近年はシカやイノシシの増加にともない、生息域も広がっているらしい。
そしてヤマビルは目で獲物を探しているわけではない。
呼吸から出る二酸化炭素、体温、湿気、振動などを感知して近づいてくる。
つまり、汗をかきながら歩く人間は、ヒルにとっては「ここにご飯がありますよ」と自ら知らせているようなものなのだ。
多くの場合は登山道や沢沿い、湿った落ち葉の中から靴やズボンに付着し、気づかないうちに体を這い上がってくる。
だが、ごく稀に、山間部のトイレのような場所で被害に遭うケースもあるので注意しましょう・・・・ということが書かれていた。
湿気が多く、人の出入りがある場所には、ヒルが入り込むことがあるらしい。
用を足しているときは、どうしても無防備になる。
だからこそ、足や太もも、お尻、そして時にはデリケートゾーンを噛まれてしまうこともあるのだ、と本には書かれていた・・・・
僕は思わず、自分の股間のあたりを見下ろしてしまった。
まさに、その通りのことが自分の身に起きたのだから。
本を読み進めるうちに、僕が一番驚いた「あの大量の血」についての疑問も解けていった。
男性器には血管が多いから、太い血管を傷つけられて大出血したのではと不安だったが、それはほとんど心配のないことらしい。
ヤマビルが吸うのは皮膚のごく浅い部分の毛細血管からにじみ出る血液で、深いところの動脈や静脈まで届くことはない。見た目にはかなりの出血に見えても、実際には毛細血管からのものなのだ。
では、なぜあれほど血が止まらなかったのか。
その理由は、ヒルの唾液にあるという。
唾液には痛みを感じにくくする成分が含まれているため、吸われていても気づかない。
さらに「ヒルディン」という、血液が固まるのを妨げる成分も含まれているため、ヒルが離れたあとも血がサラサラと流れ続けるのだそうだ。
服や下着に血が付いて初めて気づく人も少なくないらしい。まさに僕がそうだった。
見た目のインパクトは大きいが、出血量そのものは多くないことがほとんどだという一文に、僕は少しだけ肩の力が抜けた。
とはいえ、傷口は自然の中にあったものだ。細菌感染のリスクは軽視できない。赤く腫れる、痛みが強い、膿が出る、熱が出るといった症状があれば、皮膚科や泌尿器科、婦人科などを受診するようにと、本には注意書きがされていた。
念のため抗生剤を処方してくれた織田裕二の判断は正しかったわけだ。伊達に織田裕二に似ているわけではない。
これが三遊亭小遊三に似ていたら僕も幾分か不安を感じたかもしれないが、そこは安定の織田裕二だ。伊達じゃない。
そしてさらにその本のヒルのコーナーはつづく。
僕はまさに貪るように本を読み続けた。
もし、まだヒルが皮膚についている場合は、無理に引っ張らないこと。
アルコールや食塩で自然に離れるようにするのがよく、無理に剥がすと口の一部が皮膚に残ってしまうことがあるという。
ヒルが離れたら、流水で傷口をよく洗い、清潔なガーゼでしっかり圧迫して止血する。血が少し長く出ることがあっても、慌てず圧迫を続けることが大切だと書かれていた。
最後のページには、予防についてまとめられていた。山に入るときは長ズボン、長靴、厚手の靴下がおすすめで、ズボンの裾を靴下に入れるだけでもかなり侵入を防げる。ヤマビルが多い地域では、市販の忌避剤を使うのも効果的だという。
そして、本の最後の一文が、僕の目に留まった。
「山間部の簡易トイレや和式トイレを利用するときは、床や便器の周囲を一度見回してみてください。ほんの数秒の確認で、防げるトラブルもあります」
僕はその一文を、何度も読み返した。
あの朝、トイレに駆け込んだ安堵感で、周りを確認する余裕など、僕にはまったくなかった。
僕はそのときに不意に何処かで耳にした
「未病を治す」
という言葉を思い出した。
病気になってから治すのではなく、病気になる前に防ぐという考え方だ。
今回の僕の悲劇も、まさにそれだったのかもしれない。知っていれば、防げたかもしれないことだった。
自然の恵みは、僕たちに多くの安らぎを与えてくれる。
けれど同時に、思いもよらぬ小さな落とし穴も潜んでいる。
そんな事を思い浮かべながら僕はローカル電車の車窓から初夏の新緑を眺めていた。
〈おわり〉
ローカル線の楽しみは車窓からの景色と静かな車内である。
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