2020/07/27 「訊く」と「聞く」と聴く」と「きく」
2020/08/03 百万石をつかみ取り、手放さなかった賢女
前田まつ、すなわち前田又左衛門利家の妻まつ(後の芳春院)は、幼くして、前田又左衛門の許嫁になり、又左衛門が刃傷沙汰を起こして織田家を出奔したときに、共に出る。やがて又左衛門、織田信長が今川義元を討った桶狭間の一戦で活躍して織田家へ返り忠を果たすや、共に、尾張に戻る。又左衛門、出世街道を歩み、北陸方面司令官というべき柴田勝家の与力として能登23万石の大名になるも、信長、本能寺の変で横死。やがて羽柴秀吉と柴田勝家の間に、戦雲が生まれ、賤ヶ岳の戦いになる。この戦いでは、利家、柴田方与力として戦場に出るも、静観の構え。やがて、柴田方の佐久間盛政の軽挙なる中入りで、柴田方陣形崩し敗退する。前田利家は、秀吉から攻められれば攻めるという形をとりつつ戦場を去る。秀吉からみた利家は刎頸の友。秀吉は攻めず。利家は越前府中城に退く。敗退し北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家を城に迎え労をねぎらう。やがて、勝家悲心を胸に北ノ庄城に帰城する。その直後、秀吉軍府中城に着到。利家城門を開く。秀吉、単騎で城中に入る。利家とまつ夫婦これを迎え、秀吉ともども久闊を除す。やがて、まつ、秀吉を上座に据えて、手をつかえ、北之庄城攻めの先鋒はわれらに任せていただきたいと口上する。
利家、驚倒す。秀吉も驚くが、さすが大器。まつに、できるのかと訊く。それに答えて、まつ、北陸のことは前田家にお任せあれ、と胸を叩く。秀吉も、大器の者。響きの物に応えるように、わかった。北陸のことは、おことら夫婦に任せるとの一言を吐く。この瞬間、後の前田家百万石が決まった。
以後、時が流れて、羽柴改め豊臣秀吉が天下を取る。徳川家康と前田利家、豊臣家の大老になるも、秀吉、利家ともに亡くなった後、徳川家康と石田三成の間に戦雲が生ずる。このとき、前田家、最大の危機が来る。すなわち、三成が、家康を大阪城に入らせなくするため、前田家の二代目利長が、家康のいる大阪城を攻めに来るとの噂を流したのである。これを聞いた家康、放置はできず、前田家を攻撃する軍勢を催す。これを聞知した前田利長、驚倒し、家康のところへ、前田家には家康を攻撃する意志など微塵もないとべんそ(弁明)に行こうとするのを、利家の妻芳春院(まつ)が止める。芳春院いわく。家康には、前田家が家康を攻める意志のないことなど百も承知だ。家康の求めているものは、前田家の旗幟(きし:戦場に臨む武人の旗、転じて、敵になるか味方になるかをあきらかにすること)だ。ここでは、弁解は無用。おまえは直ちに、家康に、前田家には異心なし。その証のために母である芳春院を人質に差し出ししますと言えと命じ、芳春院その人は、直ちに江戸城へ行き、自ら家康の人質になる。まつが自らの意志で家康の人質になったことで、家康も安心したであろう。百万語を費やす弁解よりも一つの行動。これがまつが鮮明にした旗幟であった。この瞬間に、前田家の危機が去り、江戸時代を通して加賀前田家百万石は盤石となったのである。ちなみに前田家が、百万石になったのは、利長の時代である。徳川家が、外様である前田家を、どれほど厚くまた熱く信じたかは、全て、まつの人徳のしからしむるところにある。戦国時代、これほどまでに時代を見抜いた女性は、希有であろう。
実に、女性の才幹(さいかん)、端倪すべからざるものがあるのだ。
ロータリーが、女性をロータリアンにしたいと思うのは、むべなるかなだ。
2020/08/04追記:なお、本日付けのメールで、柴田勝家軍の敗因は前田利家・利長父子の敵前逃亡にあると、メールで連絡してくださった人がいるので、このような見方もできるのかと思い、紹介しておきたい。