クイーン・エリザベス号乗船記⑥ 天気晴朗にして,波静か
ここで,次の三つの文を比べていただきたいと思います。
上記三つの文のいずれが,読みやすく,分かりやすいでしょうか?
(ア) 建物が完成致しましたので,検分して下さい。満足して頂けるものと思います。
(イ) 建物が完成いたしましたので,検分してください。満足していただけるものと思います。
(ウ) たてものがかんせい致しましたので,けんぶんして下さい。まんぞくして頂けるものとおもいます。
(ア)の文は,文中の「致」と「下」と「頂」という漢字の存在が邪魔になり,読みにくいと感じられるのではないかと思います。これらの漢字が邪魔なのは,これらの語には漢字固有の意味が宿っていないからです。
漢字は,漢字自体が,その固有の意味を読者に訴えているのです。俺に目を向けてくれと。
これは漢字の訴求力というべきものですが,漢字固有の意味が宿っていない漢字の使い方をしますと,読者はその漢字の存在自体を煩わしく感じるのです。
その煩わしさの原因を取り除いたのが(イ)の文です。
(イ)の文の中の漢字は「建物」「完成」「検分」「満足」「思」ですが,これらの漢字は,それぞれ固有の意味が生きており,この文は,漢字を見るだけで意味が通じます。
漢字は,固有の意味を宿しているもののみを書けばよいのです。漢字固有の意味を宿していない使い方(当て字になる場合)をすると,それだけで,他の漢字の訴求力を減じてしまいます。
前記(ア)の文が,「致」と「下」と「頂」という,その文の中では固有の意味が発揮できない漢字があるだけで,読みにくく感じられるのもこのためです。
なお,「致しました」と「下さい」と「頂ける」という語句に書かれた漢字の「致」と「下」と「頂」に固有の意味が宿っていないのは,これらの語が,この文では,補助的な語だからです。
すなわち,「完成致しました」という語句で,読む人に伝えたいことは「完成」だけですので,「致しました」は邪魔な漢字使用になっているのです。
「完成致しました」と書いた文よりも,「完成いたしました。」と書いた文の方が読みやすく感じられるのはこのためです。
「下さい」と「頂ける」も同じです。
(ウ)の文は,名詞と動詞を仮名で書き,補助動詞を漢字で書いたものです。この文がいかに読みにくいかは,一見しただけで明らかでしょう。
また,ここに書かれた漢字「致」,「下」及び「頂」には,何の意味も宿っていないことも明らかでしょう。
漢字に比べて,仮名には,固有の意味はありません。しかしながら,仮名には,文を優しく,柔らかくする特徴があり,同時に,漢字の訴求力を助けているのです。
漢字は歌舞伎役者,仮名は漢字の働きを助ける黒子,と考えると分かりやすいと思われます。
ここから,文や文章では,漢字固有の意味が発揮できるときには漢字で書き,そうでないときは仮名で書くことが重要だということが分かるでしょう。
大切なことは,歌舞伎役者は,出番でないところに,顔を出してはならないということです。