地理は風土を生み出し,風土は人をつくる
我がべんごし村には,つい最近まで,会社の取締役になってはならない,広告してはならないなどの掟がありました。べんごし村の住人は,社会正義を実現し,基本的人権を擁護するのが使命であるから,会社の取締役になることや広告宣伝をすることは,その使命に反するものだという考えが根底にあったからです。
否,これを過去形で言い切ると,異論が出ることでしょう。べんごし村の住人の中には,現在でも,これと同じ考えを持つ人が一定の数いるからです。
このような考えをもつ人を,仮に人権派という言い方をすれば,人権派こそ,我がべんごし村の伝統的な考えであり,矜持であり,誇りであるのです。
しかしながら,このような高踏的な考えのみをもって,取締役になることや広告をすることを禁ずるというのは,単眼的思考(自分で価値があると思う考え以外の考えに価値を認めない考え方)といえるのではないかと思われます。
人権派的,高踏的な生き方は,べんごし村の住人の脊柱をなす生き方ではありますが,一般私人との関係にあっては,私人の悩み,家庭の悩みに解決の手を差し伸べ,会社との関係にあっては,円滑なビジネスの推進に努める仕事も,また,べんごし村住人の誇り高き使命であるからです。
ですから,ものをみる場合,自分で価値があると思う考え方以外の考えにも,同じく価値があると考える複眼的な思考を持ちたいものです。
つまるところ,儒教的,高踏的な生き方と,司馬遷のいう意味における素封家を目指す生き方は,なんら矛盾するものではないということなのです。
ここで,儒教の神様ともいわれる孔子の下で儒教を学んだ子貢に目を留めていただきたいのですが,子貢は,商取引で千金の富を積み,貧しい他の弟子を尻目に,自らは四頭立ての馬車に乗り,お供の騎馬を従えて,諸侯とも対等の交際をしながら(そのため,この時代の貴重品である絹の束を諸侯に惜しげもなく贈るなどをしています。),孔子に仕えること神に仕えるがごとき生活をし,孔子の臨終を看取っているのです。孔子は,子貢についてどう語っていたかといいますと,「子貢は私の教えに従わずに,貨殖に従事したが,彼の判断はしばしば道理に的中した。」と評していますので,儒家として合格点をつけたものと思われます。
司馬遷は,「史記」の中で,子貢の経済的手腕をたたえ,師の孔子の名声を天下に宣揚したのは,諸侯国の君主と対等に礼を交わすことができた子貢が孔子につき従っていたからだと言い切っているのです(以上は,林田慎之介著「史記・貨殖列伝を読み解く」より)。
べんごし村も,現在では,取締役になることも,広告も,原則自由にしていますが,我がべんごし村には,単眼的な見方が,絶無になったとまではいえません。
そこで,更に一言を付け加えますと,司馬遷のいう「素封の者」すなわち素封家の19世紀以降の代表格といってよいロスチャイルド家は,1822年にオーストリア政府(ハプスブルク家)より、男爵の称号が与えられているのです。さらに,このロスチャイルド家は,20世紀初頭の日露戦争で,戦う資金のない我が国日本に,戦う資金を融資してくれているのです。それほどに,経済を営む者の社会的,国際的地位は高く,また,そのような存在は極めて有用な存在なのです。
実は,わがべんごし村も,平成17年4月1日から,古い掟を廃止して,新しい掟である「べんごし村職務基本規程」を制定し,それによって,古い価値観を正しましたので,複眼を開いて見る住民の数も,増え続けるものと思われます。