年月を経ると,感じ方が変わる例
素封家とは,民間にあって,貨殖の道に励み,王侯に匹敵するほどの,巨万の富を築いた者,という意味の言葉です。
司馬遷は,紀元前の中国の歴史家ですが,その著書「史記」の「貨殖列伝」の中で,王や侯は,巨万の富を獲得できる封土を持っているが,封土はなくとも自分の才覚一つで富を蓄積し,その富が一国の王や侯に匹敵するに至る者,を「素封なる者」と造語をした(「素封」の「素」は色のついていない状態をさす言葉で「無」という意味。「素封」は「封土無し」という意味)ことから,以後,大富豪のことを「素封家」というようになった模様です。
すでに紀元前において,司馬遷は,歴史は人間が作るものであること,その人間は,富を得ようとする強い欲求によって動かされるものであること,を正しく認識しなければ,歴史は理解できない,といっております。
そうかといって,司馬遷は,財貨のみを蓄えればよい,といっているわけではありません。そこには,今日でいう,コンプライアンス精神やモラルを高く維持する必要があるとも,そのような高いモラルを持った者でないと素封家にはなれないとも,いっております。
そして,司馬遷は,「倉稟(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱(えいじょく)を知る。」という,斉の宰相・管仲の著書「管子 」の言葉を引用して,経済の基礎が得られてはじめて道徳が高められるのだという,人間観を披露するのです。
実は,この司馬遷の言は,我々現代人でも,
サイフ厚き場合は,惜しげもなく喜捨ができ,サイフ薄き場合で必要なときは惜しみつつ出し,必要でないときは喜捨の心が萎えてしまっているという現実を顧みるとき,納得できる言葉になっております。
さらに,司馬遷は,モラルや財貨のことだけでなく,素封家に求められるものは,人材の育成だともいっております。
司馬遷も,管仲も,「一年の計は穀を植えるに如(し)くはなく,十年の計は木を植えるに如くはなく,百年の計は人を植えるに如くはなし。」という趣旨の言葉を残していますが,要は,素封家になるには,人材を育てることも必要だといっているのです。
事業の経営者の目指すもの(の一つ)が,コンプライアンス精神や高いモラルを持した,また,人材を育てようとする,貨殖への道,すなわち,司馬遷のいう素封家への道であることはいうまでもないことでしょう。