遺言執行者観に関する謬説がなくなるまで①
2021/03/07 渋沢栄一が日本資本主義の父と言われるゆえんのもの
渋沢栄一は、1840年(天保11年)に百姓の子に生まれるが、やがては一橋慶喜に仕える武士になり、1867年パリで開かれた万国博覧会に、慶喜の異母弟が徳川将軍家の名代として招待されるやその随行員の一人としてフランスへ行き、ヨーロッパ諸国を遊歴する中で、資本主義の根幹をなす“不特定多数の出資者から資金を集め、個人では到底できない大きな事業を興す”合本組織(株式会社のこと。当時は株式会社という言葉はなかった。)の魅力の虜になり、帰国後、新政府吏員として新しい日本を創造する仕事の一翼を担うや、彼が魅せられた「合本組織」をつくっていこうとしたが、当時の商人はおしなべて教育はなく、視野狭く、資本と人材を糾合して事業を興す発想もなく、また、政治を行う権力者の側にも合本組織を理解する者はいなかった。そこで、渋沢栄一は、官を辞し、野に下り、自らの手で合本組織をつくっていくことにした。
彼が最初につくったのは銀行であった。複数の財閥にも出資してもらい、自らも出資し、その他多数も出資した。次いで、出資者が自由に株式を売買することを可能にする株式取引所をつくった。それに続けて、海上保険、製紙業(新聞紙の製造を目的)人造肥料業など、産業の無かったところに、新しい産業を担う会社を、次々つくっていったのである。その数は500社近いものであったとか。
彼が資本主義の父として歩んだ道は、決して平坦ではなかった。共につくっていこうとする商人側の無知・無理解・無教養、新しい企業の設立を認める側の権力の無知と横暴、こういうものとの闘いがあったのである。
もし少しでも、渋沢栄一に邪心があれば、一度に破綻したであろう。
その一事をとっても、彼には邪心はなく、ロータリーでいう職業奉仕を実践していったことは、明白であったというべきだろう。