2021/01/05 2021年を占う3.コロナ禍対策としての金融緩和は続く
2021/01/08 お金は、扱う人の器量の大きさに従って動く
この言葉は、日本における職業奉仕の先覚者ともいうべき渋沢栄一が残した言葉である。
渋沢栄一は、日本資本主義育ての親。 私利を追わず、公益を図るのが我が使命だとして、財閥を作らず、論語を拠り所に道徳経済合一説を唱え、第一国立銀行(現みずほ銀行)、第七十七国立銀行など多くの銀行、東京瓦斯、東京海上火災保険など多くの事業会社を設立した人物である。
その功績から、民間人では唯一の子爵の爵位を受けた人物(財閥を起こした人達は全員男爵止まり)でもある。
その渋沢栄一が、「お金は、扱う人の器量の大きさに従って動く」という言葉を伝え、広岡浅子に銀行の設立を促したのである。
では、広岡浅子とは何者か?といえば、彼女は、時は幕末、三井の出で、17歳で豪商の一つ両替商の加島家に嫁入りする。しかし、浅子は、加島家へ嫁いでみて、事業の経営が、番頭、手代任せにされ、主人は経営に関与していない現実を知り、これに疑問をもっや簿記、算術などを独学する。
時代はまさに動乱期。莫大な藩札を抱える両替商は、幕藩体制が崩壊すれば、藩札が紙くず同然になり破綻するとの噂が飛び交う中、取り付け騒ぎが起こり、破産する両替商が続出する。浅子は、陣頭指揮で、取り付けに応じたが、破綻寸前に至る。しかし、窮すれば通ずるということか、このとき、九州の炭鉱が売りに出た情報を得、実家の支援などを受け買い受け、成功を収める。
しかし、時代は、藩札の両替商ではない、真の銀行経営ができる人材を求める時代に入っていた。そこで、渋沢栄一は、両替商の経験、炭鉱の経営などで、知力、胆力を付けてきた浅子に、銀行家という大金を扱う人材としての力量を認めたのであろう、「お金は、扱う人の器量の大きさに従って動く」という言葉を伝えて、銀行の設立を求めたのだ。その結果、浅子は、加島銀行を設立したのである。