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2020/07/08 多様性があれば、戦いで勝つ
紀元前3世紀にあった、項羽と劉邦の戦い(別名:楚漢の戦い)。
農民出の劉邦が率いる劣弱の漢軍が、蓋世の英雄と称されるほどの強壮であった貴族出の項羽に率いられた楚軍との戦いで、負け続けていたのが、最後の一戦で勝った。
その原因は、一にかかって、多様性にあった。
劉邦軍には、大局観をもった戦略家の張良がいた。
張良は、項羽軍と劉邦軍がまだ秦を討つための友軍であった時期、秦の都・咸陽へは先に劉邦軍が入るも、劉邦に、秦の三世子嬰を殺さず、阿房宮にある財宝を奪わず、数千人からいる後宮の美姫を犯さずの三禁を約束させ、かつ守らせた。張良の慧眼あやまたず、その直後、項羽が劉邦を殺すために設けた鴻門の会で、項羽には、劉邦の命を奪う理由を探せず、劉邦の命を救ったのである。
次に、背水の人で有名な韓信がいた。その後項羽と劉邦は袂を分かち、両者の間で、乾坤(けんこん)(天下)をかけた長い戦いが始まる。やがて、最後の戦いの時がきた。項羽が率いる楚軍は、劉邦が率いる漢軍を、鎧袖一触で破り、激しく追撃。漢の軍勢は、四分五裂になって、垓下(がいか)にまで落ちていく。項羽は、今度こそは劉邦軍を追い詰めたと考えたのだが、なんぞ知らん、それらは全て韓信の策であった。垓下こそ、韓信があらかじめ漢の兵を埋伏させた、項羽のために設けた死地だったのである。
その地で、劉邦軍は、項羽軍に対し、四面楚歌の策を施す。すなわち、楚の歌を教えこんだ漢の兵士に、それを連日連夜、項羽軍に向かって、歌わせたのである。これにより、項羽軍は、故郷である楚の地がすでに漢に支配されたと勘違いをしたうえ、深夜、四方から流れてくる哀調を帯びた懐かしい故郷・楚の歌を聴き、望郷の情もだしがたく、脱走が相次ぐ結果になる。
その状況を目に見て、項羽は、愛する虞姫に向かって、「力は山を抜き、気は世を蓋う。時に利あらず騅(すい)(項羽の馬の名)ゆかず。騅のゆかざるをいかにすべき。虞や虞や汝をいかにせん。」と慨嘆久しくする。
それに応え、虞姫は、項羽の剣を持ち、最後の舞を舞い、自刃(その鮮血の中から咲いたのが虞美人草といわれているが、はて真相やいかん)。項羽は、劉邦軍の雲霞の中へ突撃して生を終えたのである。
他にも、燃える阿房宮から、内政に必要な行政に関する書類を助け出し、漢帝国成立直後の内政におおいなる功績を見せた蕭(しょう)何(か)がいる。
また、漢帝国成立後、劉邦亡き後の、悪逆非道に走る呂后の一族を粛正し、漢帝国四百年の基礎を固めた陳平もいた。
一方、項羽軍には、謀臣といえる人物は范増(はんぞう)がいただけだったが、その彼すらも、陳平の策で、項羽から遠ざけられた結果、人材はほとんいなくなる。
かくて、多様性に富んだ劉邦軍が、人材払底した項羽軍を破り、天下を統一したのである。
この楚漢の戦いは、多様性の勝利といっても間違いではあるまい。