人も,後継者も,いつまでも,呉下の阿蒙にあらざるなり
徳川三代将軍家光は,庶腹の弟である保科正之に,四代将軍になる家綱の補弼(ほひつ=補佐)のみならず,教育一切を託します。いわゆる託孤の遺命(たくこのいめい)です。
そこで,保科正之は,朱子学の権威に「輔養編」なる書物を編ませ、家綱だけでなく,家綱に近侍する者達をも,朱子学をもって,教育していくのです。
時あたかも武断政治から文治政治への移行期で,政治に難しい舵取りが必要なところ,家綱も民に優しい善政を敷いていきます。
家綱は,幼少の頃,遠島となった罪人は食料を自分で得なければならないことを知り,命を助けて遠島にした者には,命を支える食料も与えるべきだとの意見を述べ,家光はその意見を喜び,以後,幕府は,制度として,遠島の処分を受けた罪人に食料を提供するようになったことや,四代将軍になってまもなくした頃(まだ11歳程度),江戸城天守閣へ登った際に,近習から勧められた遠眼鏡を受け取るのを拒否し,自分は若年とはいえ将軍である,将軍が遠めがねで城下の様子を見れば,見られる民は嫌な思いをするだろうから見ない,と言ったことなどが記録に残されている由です。
四代将軍家綱の善政は,五代将軍綱吉の悪政とは,天地の開きがあります。
五代将軍綱吉の場合は,吉川英治が小説「大岡越前」の中で,憤りをもって書いているように,その生母桂昌院ともども湯水のごとき金銀を浪費し,幕閣の汚職も意に介せず,自分達は歴史に例がないほどの贅沢をし,そのため幕府財政の破綻を招き,金には銀を混ぜ銀には錫を混ぜるなどして悪貨を鋳造し,そのため物価の騰貴を招いて民に塗炭の苦しみを負わせたほか,一日何百人という人間の打首、遠島、入牢、重追放が科せられない日はなかったという,生類御憐憫の令(しょうるいおんあわれみのれい)による暴戻なる政治を行っています。
四代将軍徳川家綱と,五代将軍徳川綱吉の治世の違いは,保科正之という優れた政治家であり教育者がいて,朱子学を基調とする徳育を受けた者と,庶民の出で迷信深いだけの母親や,立身出世のために阿諛追従し,汚職をはびこらせた者らに取り巻かれただけの者,の違いかもしれません。
一国を治めるのも,会社を経営するのも,根は同じであることを考えますと,後継者教育は重要であることが理解できると思われます。