(補説) 隣家の住人が難しい人や怖い人であれば,これも瑕疵
1 土地と所有権
土地は,むろん,太古の昔から存在するものですが,土地の所有権が認められたのは,明治時代に入ってからです。戦国時代,土地は,そこに暮らす人々に対する支配権とともに,切取り自由の時代でした。江戸時代は幕藩制の時代で,土地は幕府が一元的に支配し,各藩は,幕府から封地として,いわば貸与されるものになりました。幕府は,赤穂浪士の討ち入りで有名な赤穂藩を改易にしたように,自由裁量でもって,封地を没収することができたのです。
2 境界
土地は、本来、一個性のある連続する広がりを有するものですが、利用上、租税徴収上、取引上の必要上、平面的な広がりを人為的に区画する必要が生じ、それをすると、区画された土地とそれに隣接する土地との区画線ができることになります。この区画線が,境界です。
区画された土地は、登記簿上、地番が付せられますが、当初は、地番の本番(支号のないもの。例えば,岡山市北区南方一丁目1番宅地100.00㎡)が付せられ、1筆の土地が分筆されると、枝番(支号。例えば岡山市北区南方一丁目1番1宅地55.55㎡及び同番2宅地44.45㎡)が付せられます。
したがって、境界とは、国が定めた1筆の土地と1筆の土地の境ということになります。境界のことを筆界というのもこのためです。
土地の境界は,他の土地を含めた土地全体の中で考えなければなりませんので,隣地同士の話合いで決めることは許されず,公的な調査を経て決められることになります。我が国では,境界は,明治初期の地租改正事業及び明治中期の全国地押調査事業を経て、公的に定まったと言われています。
3 公図
⑴ 公図の誕生(明示17年)
公図は,明治時代に,地租(土地にかかる税金)の課税を目的に作った土地台帳の附属地図として誕生しました。この土地台帳附属地図は,地租条例(明示17年3月15日太政官布告第7号)に基づき,全国規模の地押調査(大蔵省主導)の結果,それまであった地図の更正図として,まとめられたものです。
土地台帳正本及び附属地図正本は,明示35年以降税務署に移管されましたが,市町村は国税徴収の補完事務としてこれらの副本を備えることになりました。
⑵ 公示のための公簿になる(昭和25年)
戦後の昭和22年,地租は国税から府県税に移され,昭和25年の税制改正で市町村税である固定資産税になりましたが,このとき,土地台帳は,税金とは切り離されて,法務局に移管されることになりました。
ここで,公図(土地台帳の附属地図)は,土地の状況を公示するための公簿になったのです。これは昭和25年のことです。
市町村に備えられていた土地台帳の副本と,附属地図(更正図や改租図)の副本は,引き続き,市町村役場において使用されることになりました。
⑶ 登記制度と土地台帳制度の一元化(昭和35年~45年)
昭和35年不動産登記法の一部改正により,10年間をかけて,登記制度と土地台帳制度を一元化する作業が行われ,その作業が終了した法務局から順に,土地台帳法の適用が廃止されていきました。そして,土地の物理的な位置,形状を公示するものとしては,「地図」(現行の不動産登記法では14条1項)を備え付けることになったのです。
しかしながら,地図は全法務局に完備するまでには時間がかかることから,公図は「地図に準ずる図面」(同法14条4項)として扱われることになりました。
⑷ 公図のマイラー化(昭和42年~60年代)
公図は,明治時代に和紙で作られたものでしたので,永年の使用による摩耗や劣化によって,判読不能になるものも出てきたため,昭和42年以降,和紙の公図をA2サイズの透明なフィルム(マイラー)に複写する作業が進められました。なお,マイラー化の前の公図は,マイラー化後の公図との違いを表す用語として,「旧公図」と呼ばれます。
ところで,マイラー化後の公図の中には,旧公図にはあった赤線や青線の色分けができていないもの,複写技術の拙劣さから生じた境界線の歪みなども出てきました。
⑸ コンピューター化(昭和60年代~現在)
昭和60年代以降,公図がコンピューター化されてきています。
今日現在,公図のマイラー化から,はやいところで40年以上が経過しているのですが,マイラー素材の劣化や破損などもあり,コンピューター化が進められてきているところです
3 長狭物の色分け(赤線と青線)
公図には,地租を課さない国有地として分類された土地がありました。こうした土地の管理は大蔵省(現・財務省)の管轄下に入るのですが,赤色で表示された部分と,青色で表示された部分になります。
赤色の部分は里道で,水色の部分は水路です。これらは,明示8年7月8日地租改正事務局で制定された「地所処分仮規則」第8条で「官有地と定むる地所は地引絵図中へ分明に色分けすべきこと」と規定されたことにより,着色されたもので,道路法等の適用を受けない,法定外公共物になっています。地番は付けられず,登記もされていません。
なお,道や水路は「長狭物」(ちょうきょうぶつ)と言われます。この長狭物という言葉は,法令用語ではありません。国土調査法に基づいて行われる「地籍調査」(土地の面積である地積の調査ではなく,土地に関する戸籍調査の意味の地籍調査です。)を行うときに使われる言葉,すなわち測量用語です。
4 赤線・青線の現在の管理者
赤線及び青線は,平成12年4月1日施行の地方分権一括法により、里道・水路等の機能を有している物は、地元自治体(市町村)の申請に基づいて、平成17年3月31日までに当該自治体に無償譲渡されていますが,それ以外の物で里道・水路等の機能を喪失している物については、平成17年4月1日以降は国(財務局・財務事務所)が管理し,払い下げもしています。
5 「縄のび」「縄ちぢみ」
「縄のび」とは土地の実測面積が登記簿上の面積より大きいことを言い、「縄ちぢみ」とは土地の実測面積が登記簿上の面積より小さいことを言います。
縄のびや縄ちぢみは、明治初期から存する土地で、その後、分・合筆の経由されていないもの(登記簿上の地番表示が本番のみで支号の付されていないもの)や、分・合筆の経由された土地で、支号が1であるもの、あるいは本番のみの土地又は支号が1である土地を合筆している土地に見られます。
「縄のび」は、登記簿が課税台帳としての性格を有していた時代に生じたとされています。 すなわち、明治初期の地租改正事業や明治中期の全国地押調査事業における測量は、土地に対する課税を目的としていたのですが、測量方法は、村ごとに住民が行い、それを官吏が検査して確定させるという方法でしたので、測量をする住民は、土地の面積が大きくなればそれだけ地租が高くなることから、測量にあたっては土地の面積が小さくなるように、縄のびした間縄で測量したり、境界上から手を伸ばし測量する等の操作したことによると言われています。
「縄ちぢみ」の原因は、傾斜地において水平距離ではなく斜距離によって測量したことによる技術的な原因による場合や、小作地の測量に際して地主が小作料をより多く徴収するため故意に面積を大きくした場合等であると言われています。
なお、縄のび・縄ちぢみ」の率についてですが、 明治初期の地租改正事業及び明治中期の全国地押調査事業における測量においては、多くは、村内の有職者(例えば算術が出来る者)が測量方法の講習を受け、村民の総意に基づいて、その者が村の代表者、所有者等の立会のもと行い、測量図を作成したと考えられるので、同一村内における「縄のび・縄ちぢみ」の率については、だいたい一定していると考えることが相当とされています。
しかしながら、また、一筆あたりの面積が大きい山林地域においては目測或いは歩測による測量が多く、耕地地域に混在する比較的面積の小さな山林については、間縄による実測がなされていたと考えられることから、測量方法の違いにより、前者の方が後者よりも「縄のび」率は大きいとも言われています。
「縄のび・縄ちぢみ」は、すべての地域に認められるかというと、ほとんど縄のび・縄ちぢみのない土地もあるので、一概には言えないとされています。
この項については, 『登記手続における公図の沿革と境界』 新井克美著(発行テイハン)を参照させていただきました。