言葉8 書くことだ、しかも用紙1枚内に
私は、ダウン症のお子さんを持つ母親(書家)の講演を聴いたことがあります。ダウン症のお子さんというのは、NHKの大河ドラマ「平家」の題(だい)字(じ)を揮(き)毫(ごう)された方です。雄(ゆう)渾(こん)な筆致、これを天(てん)衣(い)無(む)縫(ほう)というべきか、そのびやかな書体、気(き)韻(いん)生(せい)動(どう)するに似(に)たその風(ふう)韻(いん)からは、その書家が、知的障害者であるなど、想像もつきません。
そのような書家に、ダウン症のお子さんを育てられた母親としての、何十年もの苦悩と苦労など、誰も想像できないと思いますが、講演で聴く彼女は、普通の母親でした。愛しい子が、ダウン症に罹(り)患(かん)していることを知った時の絶望から、何とかご自分と同じ書家として手に職をつけさすべく、心を鬼にしての教育。何度も、何度も、お子さんは泣きました。母親も心で泣きました。しかし、母親は、厳(きび)しい鞭(むち)を捨てることはしませんでした。
あるとき、この母親は気がついたと言います。ダウン症のお子さんを、不幸だと思っていた母親の価値の基準が、娘にはないことを。このとき、母親は、愕(がく)然(ぜん)としたというのです。娘さんは、自分が不幸な生まれであるなどとは、一度も考えたことも、感じたこともなかったのです。娘さん、いな、立派な芸術家となられたこの書家は、ご自分がダウン症であることも、ダウン症が不幸であるとの常識があることも、そして自分が不幸な知的障害者であることも、全く知らなかったのです。むろん、今も。
私たちは、多様性を受け入れると言いながら、多様な人たちを、その人の価値の基準ではなく、私たち自身が持つ牢(ろう)固(こ)として抜くべからざる管(かん)見(けん)や謬(びゅう)見(けん)の範囲でしか、受け入れができていないのではないか。そうであってはならないのだ──とこの講演の講師は語っているように思いました。
多様性の受け入れには、大きな壁のあることが分かります。それを乗り越えるには、自分の価値の基準を一時棚上げして、相手の価値の基準を知ること、理解することに努めなければならないということなのです。その理解から始めるべきことを、大切にしたいと思います。