ロータリー8 ロータリアンには、囊中の錐多し
ここで「責めない」ということは、目の前で話をしている相手を責めない、ということです。目の前にいる人と話をしていて、その話の中に出てきた知人を責めないということです。その話の中に出てきた見知らぬ人を責めない、ということです。責める相手が、目の前の人であれ、友人であれ、話題の中の知人であれ、見知らぬ人であれ、責める行為は、常に、あなたの心から平常(へいじょう)心(しん)を失わせ、心を汚(けが)すか、低めるかの効果しかありません。
責める態度は、あなたの認識している事実、あなたの考え、あなたの感情、つまりはあなたの主観や主観的価値が、正しいのだという前提で、その価値の基準に合致しない人の言動を否定するものですから、責めた後で、あなたの基準(例:認識していた事実)が間違っていたという場合も、当然起こりえます。
その場合は、取り返しのつかない結果になることもあり、家族間に溝を作り、友人を離れさせ、見知らぬ人を責めた場合でも、その責める言葉を聴かされた人の心を失います。
ですから、「責めない」ことは大切です。
どうしても責めたいという感情を抑えきれないときは、一日黙(もく)してみるのです。一晩考えた後に、はたして「責める」という感情がなお残っているかを見るのです。そうすれば、たいていの場合、責めるという気持ちはなくなっている筈(はず)です。
「責める」ということは、簡単なことです。智恵も要らなければ、努力も要りません。
反対に、「責めない」ということは、簡単なことではありません。努力が要ります。智恵も必要とします。
ですから、簡単に人を責める人は、単純で、智恵なく、努力のない人と言えましょう。
容易に人を責めない人は、知恵ある人、忍耐心のある人、賢い人と言えるでしょう。責めないこと、そのための言葉選びは大切にしたいものです。