2021/05/13 新著予告2 第一章に識字論(1)を書きたい
2021/02/01 書くことも、セレンディピティを生む
先日の日記(2021/01/29 セレンディピティ(予想外の発見)を信じよう)で、アマゾンの研究員ロヒット・プラサド氏の「私たちは、他人と同じ場にいるときに起こるセレンディピティを強く信じている」と語った言葉を紹介し、「セレンディピティ」が「予想外の発見」を意味する言葉だと書いたが、これは、結局のところ、人間の持つ一つの知的作業(精神作業といってもよい)が、その作業の中の何かに触発されて、次の知的作業を誘発するということなのだろう。そうなれば、そこで誘発された知的作業は、また次の知的作業を誘発することにもなるであろう。一波万波を呼ぶがごとく。
そのように考えてみると、私が毎日書いている日記も同じだ。
今日の日記は、2021/01/29の「セレンディピティ(予想外の発見)を信じよう)」を書いたことから触発されて生まれたものであることからも明らかだ。
そう考えると、書くこともセレンディピティを生む原因になるということだ。
私は、今、これに気づいたところで、なるほどと合点のいくことがある。
それは、よくもまあ毎日毎日日記を書く材料があるものだなあという、呆れの原因が分かったからだ。