2021/04/18 読書週間に学ぶ
2020/09/22 戦国時代にあった懲戒解雇事例
本日も、一日休日だ。そこで、堺屋太一の「豊臣秀長―ある補佐役の生涯」、の続きを読み進めた。ここで知ったことがある。
それは、信長が、織田家の筆頭家老だった林佐渡守秀貞を追放した真の理由である。
また、同時に、石山本願寺攻めを任せた佐久間信盛を、同時に追放した理由である。
歴史家の中では、この林秀貞親子と佐久間親子の追放を、謎としたものが多いようだが、堺屋太一の「豊臣秀長―ある補佐役の生涯」を読めば、その追放の理由がよく理解できるのだ。
彼らを追放した理由は、二人とも、仕事ができなかったことか、仕事をしなかったことだったのだ。
現代風にいえば、職務遂行能力不足か職務怠慢による懲戒解雇というべきものである。
実は、林佐渡守神秀貞の追放の理由として、信長が書いた折檻状には、追放した20年も前のことが書かれていた。
このことが、多くの史家の迷いの原因ではないかと思う。
すなわち、林秀貞が追放された時点から20年前、織田家筆頭家老の林秀貞は家老柴田勝家と共に、信長を織田家の跡取りから排斥しようとしたことがあり、このことも追放の理由の一つとされていたのだ。
しかし、20年も前の出来事を、追放の理由にするには、共犯者というべき柴田勝家が追放されていないことと、平仄が合わない。
信長が書いた林秀貞に対する折檻状には、林が蓄財には熱心だが、危険な仕事はしないことを、個々具体的に取り上げている。これが、追放の理由だと考えられる。
佐久間信盛も、5年間も、本願寺を取り囲むだけで、積極的な攻勢に出なかったことが追放の理由とされている。
彼らの行為は、豊臣秀吉(当時は、木下藤吉郎)が一つ一つ、困難な仕事を見事にこなしていくのに比べ、あまりにお粗末だと信長に思われたのかもしれない。
戦国時代に、武将が主君から追放されると、悲惨な運命に陥るが、この追放劇は、現在版でいう、懲戒解雇事例といえるであろう。