遺言執行者観に関する謬説がなくなるまで①
東地判平20.11.13は、弁護士が関与して作成された公正証書遺言が無効とされた事例の1つです。
遺言無効の理由は、遺言書作成時に遺言能力はなかったことと、公正証書遺言の要件である口述がなかったことです。
1 裁判所が認定した事実
⑴ Aは、平成18.2.20ころ、2人の弁護士に対し、遺言書の作成を委任した。
Aは、同年10.20ころ、進行した肺癌に罹患していることが判明した。
2人の弁護士は、11.2、A宅を訪れ、Aから遺産分配の方法を詳しく聞いて、遺言公正証書に記載する予定の遺言内容を取りまとめた。
この日のAの意識状態は明瞭であった。
⑵ 肺癌と脳幹梗塞による入院
Aは、11.7、肺癌に脳幹梗塞を併発して医療センターに入院した。Aには、脳幹梗塞の影響で左半身にしびれがあった。
11.15、Aに腸閉塞の疑いがあったことから、胃管チューブが挿入されるとともに、Aが同チューブを抜いてしまうことを予防するため、Aの上肢に四肢用抑制帯、手指に上肢用ミトンが取り付けられ、身体抑制が実施された。また、酸素飽和度が低下したため、Aに酸素マスクが装着された。
⑶ 弁護士の活動
この間、2人の弁護士は、11.8、B公証人に対し、Aを遺言者とする遺言公正証書の作成を依頼し、11.14までに公正証書遺言の案文を完成させた。
11.16、2人の弁護士は、Aの妻からAが腸閉塞のため容態が悪化しているとの連絡を受け、それまでにAと打ち合わせてきた遺言公正証書案の内容とは異なり、すべての遺産をAの妻とその子に1/2ずつ相続させる旨の危急時遺言書を作成することにしたが、同日夜に医療センターでAに会ってみると、Aは腕に点滴を受け、酸素マスクをつけていたものの意識がはっきりしていたことからその日の作成は中止し、Aと打ち合わせた遺言公正証書案どおりの危急時遺言書を翌17に作成することとした。
そして、2人の弁護士は、11.17、医療センターにおいて、Aに対し上記遺言公正証書案の各条項を読み聞かせ、危急時遺言書を作成した。このときのAの意識状態について、Aの妻より診断書の作成を求められた主治医で血液内科を専門とする医師は、特段、Aに対し認知機能や判断能力等を診断するための検査は実施しなかったものの、Aとの会話の状況から、左半身の痺れはあるものの意識障害はなく、見当識も保たれており、11.17の時点では判断能力は十分にあったと考えられる旨の診断書を作成した。
⑷ その後の状況変化
Aは、11.17以降、肺癌の骨転移に伴う高カルシウム血症、腸閉塞に伴う脱水等の症状や肺癌に伴う肺炎に起因する低酸素血症などの意識障害を引き起こしかねない病態が重なって徐々に意識レベルが低下し、11.20には、閉眼して傾眠傾向の状態になり、呼びかけてもあまり反応しないような意識レベルに陥った。
⑸ 問題の遺言書の作成
B公証人は、11.22、弁護士から、本件危急時遺言書と同じ案文の遺言公正証書案を受領した。B公証人が、Aの判断能力について尋ねたところ、同弁護士は大丈夫であると回答した。
11.27にも、Aは傾眠傾向にあって、努力様の呼吸を続けていた。
同日午後九時ころ、Aは、意識が混乱した状態に陥り、看護師に対し、「起こして立たせて、自分は院長だ、食事はどうした、ほどいて、出掛ける。」と発言した。
B公証人は、11.28午後2:50ころ、本件危急時遺言書の遺言内容と同じ文面の遺言公正証書の案文を予め作成したうえで、医療センターを訪れた。Aは、B公証人が到着したときに、酸素マスクをして苦しそうにしてベッドに寝ており、声を出せるような状況ではなかった。
その後、2人の弁護士が証人として立会い、Aの妻、B公証人の書記が居合わせる中、B公証人が、Aに間近に立って上半身を曲げてAの手を握り、持参した遺言公正証書の案文を一か条ずつ読みながら確認するので間違いがなければ手を強く握るように説明したところ、Aは握り返した。B公証人が、遺言公正証書案文の第1条と第2条を読み聞かせたところ、Aは、各条文に対し手を握って応答した。
しかし、B公証人が第3条を読み聞かせている最中に、Aは首を大きく横に振って非常に苦しそうな態度をしてそのまま眠ってしまったため、同公証人が声をかけたが再開することができなかった。このため、B公証人は、一旦は遺言公正証書の作成はできないと判断したが、妻がAを起こそうと何度も揺すって声をかけてAの目を覚ましたため、B公証人は再度第1条から読み聞かせを始めた。Aは、B公証人のすべての条文の読み聞かせに対し手を握って応じた。
B公証人がAに対し遺言公正証書案の読み聞かせをして確認作業をしていた時間は、同日午後2:50から午後3:15ころまでの約25分程度であった。本件遺言書の作成過程において、Aが声を発したのは、第3条の一回目の読み聞かせのときにうめくような発声があっただけであった。
その後、B公証人は、Aが自ら署名押印することはその病状から無理であると判断し、Aに代わって署名押印した。そして、証人である丁原弁護士と戊田弁護士が署名押印して、本件遺言書が作成された。
11.29のAの意識レベルは、刺激に応じて一時的に覚醒するが、覚醒しても自分の名前や生年月日が言えない状態であった。
2 裁判所の判断ー遺言能力の有無について
Aは、本件遺言書作成日の約10日前から、肺癌の骨転移に伴う高カルシウム血症、腸閉塞に伴う脱水等の症状や肺癌に伴う肺炎に起因する低酸素血症などの意識障害を引き起こしかねない病態が重なって徐々に意識レベルが低下し、本件遺言書作成日の約1週間前には、閉眼して傾眠傾向の状態になり、呼びかけてもあまり反応しないような意識レベルに陥っていたこと、本件遺言書作成日の前日にも傾眠傾向にあって、努力様の呼吸を続けており、同日夜には見当識障害が認められたこと、本件遺言書の作成当日には、Aは酸素マスクと上肢と手指に抑制器具を装着して酸素供給を受けながら、公証人により遺言公正証書の案文を読み聞かされている最中に、首を大きく横に振って非常に苦しそうな態度をしてそのまま眠ってしまい、公証人が一旦は遺言公正証書の作成を断念するほどの状況になり、Aは妻から何度も揺すられ声をかけられてようやく目を覚ましたこと、本件遺言書作成日の翌日には、Aの意識レベルは、刺激に応じて一時的に覚醒するが、開眼しても自分の名前や生年月日が言えない状態であったことの各事実が認められるところ、Aの主治医も、本件遺言書作成日のAの容態は前後の日と同じような状態で推移しており、本件遺言書作成日の前日にAが陥った見当識障害のような症状が現れた患者の意識レベルが翌日になって鮮明になる可能性は低いと供述していることなどを総合的に考慮すると、Aは、本件遺言書作成時において、意識レベルが著しく低下して意識障害に陥っており、遺言の意味、内容を理解し、遺言の効果を判断するに足りる精神能力を欠いていたものと認められる。
Aは、本件遺言書作成時に、B公証人による遺言公正証書の案文の読み聞かせに対し手を握り返して反応したことが認められるが、上記認定にかかるAの意識レベルからすると、遺言の意味、内容やその重大な効果を理解する能力を欠いたまま手を握り返していた可能性が高いというべきであって、Aがそのような動作をしたからといって上記判断を左右するものではない。
また、本件遺言書の遺言内容は、Aが2人の弁護士との間で打ち合わせた遺言内容を踏まえて作成された本件危急時遺言書の遺言内容と同一であることが認められるが、上記認定事実のとおり、本件遺言書の各条項は、Aが本件遺言書作成の際に自ら口述した文章を記載したものではなく、B公証人が、本件危急時遺言書の遺言内容を基にして予め記載しておいた遺言書案文であったことに照らすと、両者の遺言内容の同一性をもって本件遺言書作成の際のAの判断能力が正常であったことを推認することはできない。
以上によれば、本件遺言書作成当時、Aには遺言能力がなかったというべきである。
3 裁判所の判断 ー 公正証書遺言の要件である「口述」を満たしているか?
遺言者が公正証書によって遺言をするに当たり、公証人の質問に対し、言語をもって陳述することなく、単に肯定又は否定の挙動を示したにすぎないときは、民法969条2号にいう口授があったものとはいえないと解するのが相当である(最高裁昭和51.1.16判決)。
上記認定した事実によれば、本件遺言書作成の際に、AはB公証人と手を握り、公証人による遺言公正証書の案文の読み聞かせに対し手を握り返したにすぎず、言語をもって陳述していないから、口授があったものとは認められない。
したがって、本件遺言書は、口授の要件を備えていないというべきである。
以上によれば、本件遺言は、遺言者であるAの遺言能力が欠け、かつ、民法969条2号の口授の要件も備えていないから、無効というべきである。