僕と彼女の「老いるショック」〜加齢で減るもの・増えるもの〜山梨 漢方 老化 薬膳 さわたや薬房〜
そのとき、僕はなぜだからわからないが苛立っていた。
土曜日の午後というのは、他の曜日とは違う、いささか不思議な空気感を持っていると思う。
僕はキッチンのテーブルに座り、さっきから何度もスマホの画面をタップしていた。
タイムラインを流れる無数の文字や画像の羅列は、僕の頭の中に薄暗い何かを残していった。
窓の外からは道路工事の鈍い金属音が断続的に響いている・・・・
なぜだか分からないが、僕は苛立っていた。
理由のないイライラというのは、サイズの合わないTシャツを着せられているときのように、じわじわとカラダを締め付ける。
「ずいぶんと不機嫌そうな顔をしているわね。」
彼女が、淹れたてのミントティーが入ったマグカップを僕の前に置きながら言った。
彼女の靴下は人気アニメのイラストが入った派手なものだった。
「べつに機嫌が悪いわけじゃないさ」と僕は言った。
「ただ、少しばかり何かが噛み合っていない感じがするんだ。」
「そういうのを世間一般では
不機嫌
と呼ぶのよ」
彼女は僕の向かい側に腰掛け、マグカップから立ち上る湯気を細い指先で眺めた。
「ねえ、あなたは自分がどうして今、イライラしているか、その理由を知りたくはない?」
「もし君がそれについて、僕を納得させるだけのプロットを持っているなら、喜んで耳を傾けるよ。」
「理由はとてもシンプル。あなたの【耳】よ。」
彼女は僕のスマホを顎で指した。
「耳?」
「そう、耳。人間の聴覚というのはね、大昔に猛獣から身を守るために発達したシステムなの。
だから、耳から入る音に対して、私たちの自律神経は常に防衛体制を取るようにできている。
スマホのピコーンという通知音や、あの外から聞こえる単調な工事の金属音、
それから電子機器のピコピコした音。
そういうものを聴き続けていると、脳は
『常に危険が迫っている』と勘違いしてしまうの。
つまり、あなたの心は今、見えない敵と、本来なら戦う必要のないものと戦い続けて過敏になっているというわけ。」
僕は手の中のスマホを見つめた。
物音や画面に何も出ていないスマホ
それは冷たく、ただの黒っぽいガラスの塊にすぎなかったが、確かにこの黒いガラスの塊のようなものが僕の神経をすり減らしているのかもしれない。
「でも」と僕は言った。
「僕たちはそういう音を遮断して生きることはできない。耳栓をして暮らすわけにはいかないだろう?」
「もちろん。だからこそ、音には音で対抗するの。中庸(ちゅうよう)のゆらぎを持った音でね」
「中庸のゆらぎ?」
「規則正しすぎず、かといってランダムすぎない、ちょうどいいズレのこと。
科学の世界ではそれを『1/fゆらぎ(エフ分の1のゆらぎ)』って呼ぶわ。
時計の秒針みたいに完璧に一定な音って実は脳を疲れさせるの。
逆にまったく不規則な騒音も、ちょうど外から聞こえてくるようなランダムな工事の騒音なども脳を不安にさせる。
その中間にある、少しだけ不規則何だけど、優しい、人工的ではない自然の変化の音が人間の心拍や呼吸のリズムと共鳴して癒してくれるのよ。」
彼女は少しだけ声を落として続けた。
「たとえば、川のせせらぎ。雨の音。波の音。焚き火がパチパチと爆ぜる音。
最近そういう音を集めた動画やプレイリストが人気だって聞いたことない?
あれらはどれも一定のように聴こえて、実は毎回少しずつ違う。
そういう自然の音を聴くことで、張り詰めた自律神経はフッと緩んでいくの。
一種の『音のご自愛』ね。
脳の疲れた現代人には、古くからある、自然に即したそういう耳の養生となる音が必要なのよ」
僕はしばらくの間、彼女の言葉を頭の中で反芻してみた。そして、遠くの工事の音に意識を向けてみた。
確かにそれは、僕の脳のどこかを硬く硬化させているようだった。
確かに最近、自然の音を僕は全く聞いてなかった。意識してなかった、と言っても良いかもしれない。
川の音、鳥の鳴き声(カラスぐらいは聞いていたかもしれないが)、風で木々が揺れる音、そして雨の音など
最後に聞いたのはいつか?というぐらい僕の意識から彼女が言うところの
【中庸の揺らぎを持った音】
から遠ざかっていた。
「じゃあ、さっそくYouTubeで雨の音でも検索して聞いてみるよ」
僕がスマホに手を伸ばそうとすると、彼女はそれを遮るように僕の手の上に自分の手を重ねた。彼女の手のひらは心地よく温かかった。
「ちょっと待って。確かに中庸の揺らぎの音はあなたにとって癒しとなるんだけど、ちょっと例外があるの」
「例外?」
「ええ。もし、その自然の音すら『なんだかしんどい』とか『うるさい』と感じてしまうなら、それはあなたの脳や自律神経が、すでに限界まで疲れているというサインなの。
ストレスや睡眠不足で感覚が過敏になっているときは、本来は癒やしであるはずの自然の音さえ、脳にとっては『処理しきれない多すぎる情報』になってしまうのよ」
「そういうときは、どうすればいいんだい?」
「簡単よ。何もしないの。音楽も、自然の音も全部消して、あえて『無音』の静かな空間に身を置くこと。
漢方の世界におけるご自愛には、一律の『正しい答え』なんて存在しないのよ。
どんな病気も漢方では
【同病異治】
と言って、一人ひとりの体調、体質、環境などにより治し方が異なるの。
音も同じで大事なのは
今、この瞬間、あなたが
『心地いい』
と感じるかどうか、だたそれだけよ。」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「もし無音が退屈なら、あなたが昔よく聴いていた懐かしい、古い曲を聞くのもいいわね。
子供の頃はやった曲、中高生の時代に夢中で聞いた曲
あるいは、子供の頃におばあちゃんの家で聴いたような、懐かしいCMソングなんかも実は心の安らぎになるの。
そういう記憶と結びついた音は、理屈抜きで心をほっこりさせてくれるから」
僕は小さく息を吐き、スマホの電源をオフにした。そして窓の外に目をやった。
風が庭の木々を揺らし、葉と葉が「ささささ・・・・」と擦れ合う微かな音が聴こえてきた。
都会にいるからその音が聞こえないのではない。
僕自身がその音を聞こうとしてなかったのだ。窓の外から聞こえてくる中庸の揺らぎの音は、確かに完璧ではないが、僕の耳にはとても親密なものとして響いていた。
「どうやら、僕に必要な音が分かった気がするよ」と僕は言った。
「それはよかった。」
彼女はそう言うと満足そうに微笑み、自分のミントティーを口へ運んだ。
僕たちの土曜日の午後には、まだたっぷりと時間が残されていた。
僕は椅子の背もたれに深く身を預け、風が運んでくる不規則なリズムに、ただ静かに耳を澄ませることにした。
そしてこの午後の時間を使って自分のなりのプレイリストを作り始めた。
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