読書日記「百年の孤独」
昔のことであるが、いわゆる江東区バラバラ殺人事件で、東京地裁は星島被告人に対して無期懲役の判決を言い渡した。検察官は死刑を求刑していたことから、検察側が控訴するかどうかが当時の焦点であった。その後どうなったかは今手元に資料がなくわからない。
この裁判は当時もうすぐ始まる予定であった裁判員裁判を見据えて、検察側は法廷で映像を駆使してビジュアル化を試みていることが報道されていた。殺害後死体をバラバラにした行為の再現や被害者の肉片の写真を出して遺族が号泣したことも報道されている。
このような検察側の手法に対する賛否については両論あり得るであろうが、マスコミは概して批判的であるといえるだろう。ただ、この稿ではその論点について触れることが目的ではない。死刑と無期懲役の間にあるものを考えたい。
被害者一名であれば原則死刑は出ないというのがおおむねの日本の量刑相場であるといえる。なぜそのようになったかというと、最高裁が死刑はありとあらゆる観点から被告人の罪責を考えたとしても極刑を持って臨むしかないという場合でなければ死刑判決をすべきでないという判断をしたからである(少しはしょって書いているので、正確ではないのでそこはつっこまないように)。
しかし、死刑と無期懲役の間には、とてつもなく深い溝が横たわっていると思う。最近は無期懲役の終身刑化が進んでいるといわれるが、過去は仮出獄で割合早く世の中に出てきていたのである。それに対し、死刑は被告人自身未来がなくなるのである。
この2つの刑の間にある深い溝は、被告人にとってもそうであろうし、被害者の遺族にとってもそうであろう。ただ、そのあり方は異なっているであろう。
裁判官たちも、自らが人の命を奪う判決を書くことは心理的な抵抗があるようであり、何かのエッセイで読んだ記憶があるが、死刑判決を言い渡す前に法廷に向かいながら、裁判官が3人とも、被告人のために「何かいい情状はないのか」を探して、「やはりない」ので「死刑」しかないという結論を再確認するたびにため息をつきながら法廷に向かうというのである。
この逸話からすると裁判官にとっても溝の深さは計り知れないのであろうし、求刑する検察官にとってもそうであろう。私は修習時代死刑求刑をする直前の公判検事を見たが、張りつめた、沈痛な表情であった。
そして、(どんな反吐が出るような、虫酸が走るような悪事を働き、反省が一切ないような)被告人のために刑を少しでも軽くするための活動、すなわち弁護をする弁護人にとっても溝の深さはそうであろう。
私はどういう場合に被告人を死刑にすべきということを一概にいうつもりはないし、そのようなことを言えるような男でもない。
刑事処罰が当該被告人に対するものである以上、その被告人側の事情もある程度考慮されるのもやむを得ないとは思う。
しかし、被害者側の事情が生者である被告人ほどに汲まれているのかどうかについてはどうなのであろうかと思うことがある。
被害者は死亡していて被告人に対して何をいうことも出来ない。殺人事件の場合、被害者の将来はその被告人によって奪われている。そして、多くは被害者に落ち度がないことが多い。
そのような場面で生者である被告人側の事情ばかり強調されてよいのか。
人1人殺した場合でも、最高裁のいう基準によっても死刑が与えられる場面は当然あるのではないか。
一般的に、日本人は死体についてもそれを仏としてただの物体とは見ない。生きていた時の姿で葬儀をあげることを望み、骨についても墓に納めてその死を悼む。
ところが、この事件では、遺族はそれすら許されなかったのであるが、その常軌を逸した行動のインパクトがあまりに強く、殺害後の行動をどこまで重視するかという点がポイントとなりすぎたのではないか。
被告人の殺害動機も、性の奴隷にしたかったという全くの身勝手なものであり、多くの場合、被害者からすれば、殺されるいわれは全くないのである。
死刑を科すべきであったのか。あるいは無期懲役でよかったか。
この判決をどう見るか。