読書日記「百年の孤独」
荻生徂徠(おぎゅうそらい・江戸時代中期の儒学者・思想家)は、炒り豆をかじりながら歴史上の人物を論じることほど面白いものはないと言ったそうである。
先日、コンビニに行った時に「イカリ豆」という揚げた豆を見つけて、炒り豆ではなかったのであるがこの言葉を思い出して、イカリ豆を買いこんできて今ぽりぽりとかじりながら少し日本酒を飲み、インターネットを見たり司馬遼太郎の本を読んでいる。
この夜の時間帯が私にとっては至福の時間である。
私は自宅ではあまり酒を飲まないので珍しいのだが、イカリ豆を食すのにはやはり日本酒かという単純な理由から飲んでいる。少し冷え込んだので酒で暖まろうというこんたんもある。
さて、冒頭の荻生の言葉であるが、私も歴史好きである。しかし、「自称」歴史好きの人と論じるのはあまり好きではない。ほとんどは歴史オタクのような人で、やれこの城名を知っているかとか、クイズに出てくるような些末なことを自慢するばかりで本質的な議論にならないことが多いからである。今のところ、私の周りでそうした話が出来るのは数名程度である。
少し酔っているので話があちこちに飛ぶが、夜にネットでちらほらとブログを見ていると、本当に自分の日記を書いているだけの人が割合多いことに最近驚いている。日記のようなものを書くのであれば、自宅で自分のパソコンの中にうちこんで居ればいいように思うのだが、違うのだろうか。
自分がどうであるとか、自分がこうでしたとかなどというブログは読んでいる方にとっても詰まらないと思うし、公開している意味がないように思うのである。そのようなブログは読んでみても「何がいいたいのかな」と思うだけである。まあ、だったら読まなければいいのであるが、まあ読んでみても詰まらないのである(少し酔っているので辛口)。
司馬遼太郎のエッセイ集を読むと、やはりエッセイの中にもメッセージが詰まっている。
私はいち弁護士に過ぎず、別段作家を気取っている訳でもないが、やはり公開して何かを書く以上、メッセージがないことには意味合いがないように思っている。メッセージを伝える意図がないのであれば、ブログをする意味はないのではなかろうか。
逆に、メッセージを書く以上はそれにふさわしい人物でなければならないのだが、私の場合、こればかりはいつまで経ってもどうにもならない。
他の弁護士のブログを見ても、私から見て、「そんな偉そうなことがいえる人かなあ」という人が立派なホームページを立ち上げて、ブログで偉そうに言っていることがある。
私の場合、いろいろと書いていても「かくありたし」ということで書いているので、そのあたりは相当割り引いて読んでもらいたいのである。