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コラム

織田信長3

2011年10月6日

コラムカテゴリ:法律関連

 上洛した信長であったが、そのまま京に居座ることをせず、岐阜に戻る。これは、戦国最強武将の1人である武田信玄の領国と国境を接している為もあったろうし、京は信長の本拠から遠かった為、京で反乱でも起こった場合に備えたのであろうか。以後、信長は京に常住するということがなく、京に居城を作らず、その都度仮の宿を取るだけであった。信長が京に城を構えていれば、後の本能寺の変もなかったであろう。明智光秀が城を攻めている間に周辺の諸将が集まってきたであろうからである。

 信長は、朝倉義景に上洛を促したが、義景はなんのかんのと理由をつけて上洛をしない。義景からすれば、直前まで自分の手元に居た足利義昭を擁して上洛した信長に対する嫉妬もあったであろうし(自分は何回足利義昭から言われても上洛しなかったのであるが)、双方斯波氏の被官であった織田氏と朝倉氏の間では、信長の織田氏は、織田家のさらに家老の家柄であったため陪臣であり、朝倉氏よりも中世の身分感覚でははるかに下位に立つ家柄であったから、織田氏などに従えるかという気もあったであろう。
 上洛前に、浅井長政は、「浅井氏に断りなく朝倉氏を討たない」という確約を信長から得ていた。浅井氏は、最近見つかった資料によると、ほとんど朝倉氏の被官であったようであるから、このことはうなづけるのである。
 ところが、信長は、突然朝倉征伐を開始する。
 木ノ芽峠から乱入し、金ヶ﨑城を陥落させた信長に、信じられない一報が入る。
 「浅井長政、裏切り」
 であった。
 長政からすれば、先に信長が違約しているのであるが、信長は自分が違約しても人が違約するとは考えない質であったようである。また、将軍の命令に従わない朝倉義景を討つという大義名分がある以上、浅井長政もこれに従うと楽観視していたといもいわれる。
 しかし、これで信長軍は挟み撃ちにされる形になる。浅井氏は北近江を領していた為、越前から岐阜への退路は断たれたのであった。退却口は、琵琶湖の西側を通り京都に逃げるしかない。
 信長は、同盟者の徳川家康に告げることもなく、ただ数騎で駆けだしたといわれるが、その前に殿(しんがり)を決めなければならない。殿はほぼ全滅するであろう。命を捨てる役割である。信長が殿を引き受ける者を探した時、羽柴秀吉は、自らを殿に任命してもらうよう進言したのであった。信長はこれを許した。秀吉は、この時点で一将校に抜擢されていたが、その功績は敵を寝返らせたりするという調略が中心であり、武略はないとみなされ軽んじられていた。秀吉が織田家中で重きをなすためには、命をかける必要があったのである。

 秀吉は金ヶ﨑城に籠もり、少しでも退却の時間を稼ぎつつ、敵を引きつけて退却することとなった。この間、信長は朽木を通り京に向かって駆けている。
 秀吉の命を張った行動に、それぞれの部隊から、何騎かずつを秀吉の部隊に残してくれたという(秀吉嫌いの柴田勝家もこのときはさすがに感じ入ったようである)。
 なお、このとき、徳川家康が、秀吉とともに殿を務めたと書かれた史書もあるが、私には信じられない。同盟者である家康がそのような危険を冒すはずもなく、家康も数騎程度秀吉に人員を割いて残してくれたというところではないであろうか。
 秀吉の部隊は少し引いては反撃するということを繰り返し、無事殿を務め、京にたどりついた。
 信長はこれにより、浅井・朝倉連合軍と戦わざるを得なくなったのである。

この記事を書いたプロ

中隆志

被害者救済に取り組む法律のプロ

中隆志(中隆志法律事務所)

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