読書日記「百年の孤独」
江戸時代はそれぞれの大名には家老が居て、「君は一代、家は末代」ということで、藩主が暗愚であったりすると、藩主を「押し込め」て、幕府に訴え出て、新しい藩主を決めるということもしていたようである。もっとも家格の高い家老がその役割を果たしていたとされる。
忠心から出ている場合、暗愚な君主では藩が潰れるため、これは良い機能を果たすであろう。
しかし、逆に忠心がなく、自らの権益を守ろうとする場合には、こういう家老は大変困った存在となる。
すなわち、英邁な君主が出てきて、自分のやりたいような政治をしようとすると、家格に守られて安穏と日々を暮らしている家老たちからすると、実力主義で人材登用をされたり、家老の石高を下げられたりするということは大変困るのである。
そういう意味では、江戸時代の藩主は多少ぼんやりしている方が家老にとっては安心であったということが出来る。
幕府の方も江戸時代初期には各地の大名を取りつぶすことに懸命であったが、浪人が数多く出てその対策をしなかったが為に、由井正雪の乱が起こり、その態度を改めている。
末期養子の制度を取り入れ、本当は大名が死んでいるような場合にも、家老たちがタテマエ上「病気」ということにして、藩主の遺言であるとして跡継ぎを立てたりしたこともあったようである。しかし、藩主が死んでいたり判断能力が落ちているような場合には、家老たちによって都合のいい藩主が立てられることも多かったのではなかろうか。
最も高い家格の家老は血統によってその地位にいるに過ぎない。江戸時代に各地に大名が封ぜられた時点で、その各藩にとって最も功績が高かった人物を家老としたのであり、先祖の功績によってそれを代々受け継いでいるに過ぎない。
こうした既得権者が、既得権を侵害される時には抵抗をするという図式は今も昔も変わらないところがあるだろう。
また、最近経済的に二極化が進んでいるといわれているが、この家老のように、元々財産がある者はそれを利用として安穏と出来、収入が低い人は経済力がないが為に才能があっても浮かび上がれないという状況は、さながら江戸時代のようである。
幕末が来て身分に関係なく昇進する筋道が立てられたが、経済的な二極化はより根本的な問題をはらんでいるように思われる。
ロースクールに行くにも多額の費用がかかるということであり、それなりの子弟でなければ司法試験を受けることが難しくなっているように思う。お金に苦労せず安穏として育てられたお坊ちゃんお嬢ちゃんが、時には社会の裏の裏まで経験させられる厳しい法律家の世界で対応できるとも思えない。
最近、ビジネスロイヤー志向が強まっているようであるが、どろどろした事件を引き受けることがお坊ちゃんお嬢ちゃんでは出来ないからという一面もあるように思われる。
司馬遼太郎は、相続について、オランダの制度を取り入れるように言っていたと司馬の本ではない本で読んだ。オランダでは、不動産は一代限りでしか所有できず、相続の対象とならないということである(正確に確認はしていない)。
すなわち、親が山ほど不動産を持っていて、親が死んだ後はその賃料収入で安穏と暮らしていくというようなことは出来ないということなのである。
日本も経済を活性化させたり、能力のあるが経済的な問題で学校に行けないというような人がその力量を発揮できるような抜本的な制度を作らなければ国際社会で生きていけないであろう。
血統だけではだめなのである。