読書日記「百年の孤独」
弁護士になる前は本当に怖かった。自分は弁護士としてやっていけるのか、お金は稼げるのか、様々なことを考えた。やはり公務員の道を選んだ方が安定したのではないかという弱気になったこともある。
若手弁護士や中堅の弁護士と話をしたり、検察官と話をしていても、やはり相当なストレスはかかるようで、「胃が痛くて、仕事に行く前はもどしていた」とか、「忙しすぎて心臓がバクバクいっていて、このまま死ぬのではないかと思った」というような話しも聞くことがある。
ある大ベテランの先生は、若い頃事件で出した書類が間違っていたのではないかと気になって、夜中に起き出して事務所まで調べ物にいったこともあると話をされていた。
経験を積まない頃は、様々なもので調べたり、人に聞いてとかく事件処理について不安なものである。
私は割合現場に出ると開き直れるタイプだったので、いざ弁護士になってみるとそれなりに若い頃もはったりは効いていたようである。これには声のトーンとか話し方、風貌などの要素も加味されることにはなる。
しかし、内心はやはり不安との戦いであった。
しばらくすると、それなりに出来るようになったと思うようになる。今から思うと、思い上がりも甚だしいし、顔から火が出るのであるが、それなりに書面も書ける気になってきて、「俺も出来るようになってきたな」と知らず知らずのうちに天狗になっていた。これは私の周囲の弁護士を見ていても、今の若手を見ていてもそのような傾向にあると思う。自信がついてくるのはよいことなのであるが、慢心とか過信はいけないということである。
その頃に、やはり鼻っ柱を折られることがあった。これは私の周囲の弁護士を見ていてもそうではないかと思う。何気なく甘く書いた主張とか、尋問の打ち合わせが不十分であったが為にそこを取られて敗訴していたり、相手にうまく反論されたりということがあると、そこで「はっ」と気が引き締まり、過信していたり慢心していたりしていたことに気づくのである。
事件をするには限られた時間の中での制限はあるが、その中でいかにベストを尽くすかということに尽きるように思う。この事件はこの程度で勝てるとか、この事件はこれくらいやっておけば勝てるだろうとやっていると、ある日突然負けたりする。やはり裁判は甘いものではないのだと今でも思う。
ただし、そうだからといって、事件を受任したり法律相談をしなければ実力は伸びていかないと思う。時間の許す範囲で、国選刑事もやり、ボスの法律相談はほとんど変わっていっていた。それが今役立っているところもある。
しかし、個人の事件を受任する時や委員会の仕事やその他の仕事をするときに心掛けていたことは、「事務所の事件を最優先する」ことであった。
給与を貰っている以上、事務所の事件を最優先にすることは当たり前であり、それがプロであると諸先輩方から修習時代にも、弁護士になってからも教えてもらった。事務所に貢献していなければ、どれだけ弁護士会の仕事をしても、個人的な事件をしても評価されないのである。
自分の事件をするときには、皆が帰って静かになった事務所で破産事件の申立書を作って疎明資料のコピーを自ら作っていたことも多々ある。それは、日中は事務所の仕事で手が一杯であったからである。個人の仕事を日中して、事務所から配転された事件が間に合わないとか、手が一杯であるというのは仕事に対する「甘え」であると教えられた。
おかげで、私が所属している血族的会派の中でも、「事務所に貢献して頑張った」ということをいって貰えて、割合大きい顔をしていられる。もちろん大きい顔をしたいからといってそうしてきた訳ではなく、それをするのがプロであると思ってたし、そう教えられたからである。
昔は4月に弁護士登録であったので、9月が来て半年近く経つと、「カムトゥセプテンバー」といって、4月には甘甘の顔をしていた新人弁護士も一人前の面魂を備えてくるといわれていた。
最近は宅弁とか即独の人が増えてきたというが、教えられる人がいないと中々そうした
面魂にはならないのではなかろうか。あるいは逆に厳しい環境で早くに面魂を備えるのであろうか。