読書日記「百年の孤独」
人間の心には闇がある。「こういう性格」とレッテル付することが流行っているが、海音寺潮五郎は、そうした性格というものは小説の中だけのことであり、「現実の人間というものはもっと複雑であり、様々な性質が混在している。豪傑肌の人が意外な神経質のところをもっていたり、神経質だと思っていた人が思い切ったことをしたりするものだ」ということを言っているが、明言である。さすが海音寺。
海音寺は、また、人間の性格や性質というものも、生涯を通じて同じではなく、良いときと悪い時期があるということもいっている。これまた明言である。
事件を見るときに、生の人間の営みを相手にするものであるから、そうした人間性というものについても考えざるをえない。また、人間の心には闇があるから、その闇の部分についての検証が必要である。
そのため、仕事中は嫌なことだが、私も様々なことを考えている。
仕事を離れると超がつくほど単純な人間なのだが、仕事中の私は様々なことを考えるので、嫌な人間であると自分でも思うのである。これは私の二面性であるといえようが、トレーニングされた弁護士は皆似たり寄ったりではなかろうかとも思う。もちろん、仕事を離れても大変嫌な性格の弁護士もいるだろうが(私がいい性格と言っているのではなく、単純であると言っているだけである。)。
毛利元就があれだけ謀略を尽くしたのに人望があったのは不思議といわざるを得ないが、武将として謀略を尽くす時の毛利元就と、プライベートな毛利元就は全く違った人であったのではないかと最近思う。謀略をしていない時の毛利元就は、愛すべきところが多々あったのではないか。
秀吉も悪人といえばこれだけの悪人もいないし、謀略の天才ともいえるが、そういうところを離れた時には極めて魅力に富んだところがあったのであろう。
真田昌幸も謀略の天才であったが、秀吉にはコロリと参ってしまい、九度山で日々秀吉の肖像画を拝んでいたとされるから、よほどの魅力が秀吉にはあったのであろう。
最近の性格のレッテル付ブームを見るにつけ、こんなことを考えてみたりしたのである。