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コラム

石田三成

2011年7月6日

コラムカテゴリ:法律関連

石田三成は関ヶ原の戦いの西軍の実質的総大将であるが、その性格が潔癖すぎたため、勝利者にはそもそもなれなかったといえる。
 石田三成は自身が頭が良すぎてミスをしなかったせいであるかと思うが、ミスを許せない性格であったようである。そのため、些細なミスまでを秀吉の耳に入れて、一時期、朝鮮の陣での軍紀違反などを問責された結果、加藤清正などは秀吉から勘気を蒙り、目通りすらかなわなかった時期がある。朝鮮の陣における在韓諸将のミスの指摘をしまくったおかげで、秀吉の死後朝鮮の陣から戻った武将はたいてい三成を憎んでいたようである。
 頭の良い人は人のミスが目についてしまうものである。しかし、さらに頭のよい人は他人と自分とは違うものだという前提がある。自分に出来ることが他人に出来ないことはあり得るので、人の上に立つ人物というのは我慢が必要なのである。小さなミスばかりあげつらっていては、人はついてこないであろう。

 一方、朝鮮の陣で最も得をしたのは家康である。家康は、日本の前線基地の名護屋までは行ったが、決して渡航しようとせず、ここで数々の武将と懇ろになったのである。ミスばかりをあげつらった三成と、ここで顔を売った家康。既にこの時関ヶ原の勝負はついていたのかもしれない。
 

 三成は「豊臣家の御為」として兵を起こしたといわれるが、三成としてはこのまま家康の天下となれば当然自分はこれまでのように権勢を振るえないから、政治家としての自分の地位を確保するために兵を起こしたところがあったことは否めないであろう。

 三成は人を遣うのが下手であったようである。気が合う家臣からは相当慕われていたようであるし、領地の民からも慕われていたようであるが、総大将となりうる器量ではなかったようである。清濁併せのむというようなところがなく、人情の機微にも疎かったといえよう。逆にいえば家康に比べて裏表のないところが好感がもてるともいえ、そのようなところを家臣や領地の民は慕ったのかもしれない。
 関ヶ原の戦いでもっとも強かったのは石田隊と宇喜多隊、大谷隊であることからしてもそのことがわかろうというものである。

 三成の関ヶ原の敗因はいくつかあるが、最たるものは寝返り工作に対してあまりに疎かったからであろうか。その他、関ヶ原で過去に例を見ない的中突破を果たした島津維新の気分を害したこともあるだろう。
 大谷吉継は、裏切りのありうることを見越して陣取り、裏切りが出た時にしばらく少数の人数で支えたほどの名将であるが、彼は三成の親友であった為、三成が負けることを見越していたにもかかわらず西軍に投じたといわれている。
 大谷吉継はハンセン病に罹患しており、ある時秀吉の御前で茶の中に鼻水をたらしてしまったことがあった。当時ハンセン病は業病と考えられていたので、そのような鼻水をたらしたことが分かれば腹を切らざるを得ないと考えていたところに、三成が、吉継が鼻水をたらしたことを十分分かっていながら、「喉が渇き申した」といいながらその茶を全て飲み干して吉継を救ったため、恩義を感じていたともいわれている。
 吉継に関しては、またどこかで書きたいのでこの程度にするが、西軍の敗将は、負けはしたがいずれも爽快感を感じさせてくれる武将達である。

 三成は、関ヶ原で敗れて大阪城に帰ろうとしたが、途中捕縛され(自ら縄についたともいわれる)、斬首されたが、最後まで堂々としていたところは見事である。これから斬首される寸前に、喉が渇いたというと柿を出されたところこれを食べなかった。なぜかと三成に聞くと、「柿は痰の毒になるのでいらない」と言ったという。
 これを聞いて、首切り役人が「今から首を斬られるものが何をいうか」とあざ笑ったところ、「大志のある者は最後の時に至るまで命を大事に思うものだ」といって泰然としていたという。最後の最後まで三成は諦めなかったのである。これも心に響く逸話である。

この記事を書いたプロ

中隆志

被害者救済に取り組む法律のプロ

中隆志(中隆志法律事務所)

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