読書日記「百年の孤独」
私は自宅と事務所がそれなりに離れているので、仕事を持ち帰ることがある。そのときに参考文献があると助かるのだが、それまで入れているといかに巨大な鞄でもぱんぱんになってしまうし腰に悪い。
そのため、基本的な書籍は自宅にも置いておくことに最近したのだが、条解刑法とか条解刑事訴訟法とか会社法の本とかけっこう高いのである。
法律書も購入する候補が決まっているものはアマゾンで買っている。
会社法などは次々に新しい本が出るので油断すると古い版になっている可能性がある。時々版が新しくなっていないか確認するのにもアマゾンの検索は便利である。
なお、私は基本的に本で調べるのが好きで、人から教えてもらうことは嫌いである。
逆にいうと、人から教えられるのが嫌いだから本が大好きということも出来る。私がその本を読んでいても、筆者に対して敗北感を抱くことがないからである(たまにやられた!という感じで敗北感を抱くことはある。最近では司馬遼太郎の関ヶ原と城塞)。
人に聞くことは負けることである(私の勝手な人生観。小さい人間である。悟りにはほど遠い)。でもそういう人はきっと多い。
本屋でも目当ての本がなかったら店員さんに聞けばよさそうなもんであるが、私は聞かない。本屋のパソコンで検索もしない。ひたすら自分で探す。アマゾンの検索は自分の事務所でせこせことしているからこれはオッケーである(何がオッケーかわからないが)。
普通の人が人生で体験できることは限界があるが、本はそれを補ってくれる。家康だったらこういう時どう考えるかとか考えることが出来る。
法律書も様々な見解が書いてあったりして時間に余裕がある時は、「ここの記載をどう引用しようかなどと余裕をかまして面白く読める時もある。
夕方や昼間私が何もしていないように見える時は文献などを読み込んで考えている時である。決してさぼっている訳ではない。決して。たまにそのまま寝ていることもあるが、それは寝ながらもきっと思索しているのである。