読書日記「百年の孤独」
刑事事件においてもっともやっかいなのは、逮捕ないしは勾留により被疑者・被告人の身柄が拘束されていることである。
アメリカにおいては、刑事被疑者・被告人となることと身柄拘束とは必ずしも同義ではないが、日本では微罪などを除いては基本的に拘束されるといってよいし、捜査機関も裁判所も身柄拘束から生ずる不利益について、おおむねあまりにも無頓着である。
弁護士からすれば、また一般常識からすればあり得ないような理由で身柄拘束が継続されるということを多少なりとも刑事事件を扱ったことがあれば感じるであろう。
身柄拘束からの解放は、その被疑者や家族が受ける不利益からして、刑事弁護においてはもっとも考えなければならない点ということになる。
事実関係に争いがない場合には、勾留されている間に出来うる限りの弁護活動をしなくてはならない。
告訴がなければ起訴が出来ない事件(強制わいせつや強姦)では、被害者と示談し、告訴取消書をもらうことで起訴出来なくなるので、その時点で身柄が解放されることになる。
こうした形で解放できた事案も多い。
事実関係に争いがある事件であれば、「嫌疑不十分」ということで不起訴に持ち込むことが考えられるが、検察官はだいたい嫌疑不十分で不起訴は嫌がるようである。この場合、一度でも自白をしていると、後に裁判官が「信用できるし任意性もある」とされると有罪になってしまうので、やってもいないことは「やっていない」というべきである。
こうした場合のいろいろなノウハウは私の企業秘密であるので書くことはしないが、いかにして身柄拘束から解放するかということを常に念頭においての活動がもっとも重要になることが多いのである。