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コラム

松井達治 自己開示 エピソード2

2016年10月10日 公開 / 2020年2月12日更新

コラムカテゴリ:くらし


大学卒業から社会人

前回の続きです。過去の内容はエピソード0、1をごらんください。

エピソード0はこちら
エピソード1はこちら

そうして決めて、テストに臨みました。その後全員通りましたので、卒業できました。そして、めでたく???プロポーズをしました。プロポーズは嫁さんが、私の部屋に来ていたのでそこでしました。一応OKだったような気がします。
そして、1回目の国家試験。落ちました。全くわからなかった。
その後、落ちるとわかっていたので、落ちる前に嫁さんの実家に行きました。
実はお義父さんとあったのは、お義父さんから見ると最低の気分の時に会いました。それは、義母が亡くなった通夜の時でした。当たり前ですが、嫁さんと一年付き合い全く見ることもなくずっと娘が遅く帰るのを知っていましたので、とても気分が悪い状態でした。
ただでさえ居場所がなかったのですが、そのような状態での挨拶。
当然、厳しい結果でした。その日は、シーンとした感じで、終わりましたが、
奇跡がおこりました。それは、大学4年生の調剤実習の時で大学病院に実習に行った際のことです。お父さんは2週間に一回大学病院に通院していまして、その、私の研修先と同じ病院でした。また、その研修の期間と重なり、何千人と患者さんが来る中、たまたま私がお父さんを呼ぶ順番となりました。そしてお父さんのお名前を呼んで。「純さんとお付き合いさせていただいてます松井です。」とお伝えさせていただきました。その時の安心したお父さんの顔が今でも思い出されます。それから、「たっちゃん」と呼んでいただくようになりました。
予想通り落ちました。漢方薬局に就職が決まっていましたので、新入社員研修の際に「誰が落ちたんだろうね?」という言葉が胸に刺さりました。事実ですがわかったいたけどですね。
その後、解雇されることはなく、勤められたので、新人で一番の売り上げを上げられるように頑張りました。その後は冬から3ヶ月の予備校通いをしました。漢方薬局との出会いが私の学びを教えてくれました。本を読むきっかけもここからでした。
予備校では、全くチンプンカンプンから、少しわかるようになりました。
3月に国家試験がありました。それまでは、いけるかな?という感じでした。しかし実際に受けた時当時65%が合格ラインでしたが、自己採点で1点足らない!
実際は記名ミスがあれば、何点か足らないかもしれませんが、確実に1点足らない。でも今回は難しかったからボーダーが少し下がるかも?なんてことを考えておりました。しかし現実は甘くなく2回目も落ちました(涙)
さすがに今回は凹みました。家の近くの焼き鳥で嫁と二人で残念会をしました。もう受からないのでは、薬剤師なるのは諦めた方が良いのでは?なんて考えました。
でも、松井商会で役に立つのなら、と思い親にお願いしてもう1度受けました。
3回目のために半年休みました。会社もパート扱いになりました。
そして予備校に通いました。この時にタバコを吸うことになりました。薬剤師でタバコの害をお話しないといけないのに吸い始めました。というのは8割以上の人が吸っていたので、仲間になれるようにという感じでした。今はやめました。そして、3度目の国家試験を受ける前に嫁から言われた言葉がありました。
何かと言うと世の中には2つの言葉がある「3度目の正直」「2度あることは3度ある」という2つの言葉がる。どちらが本当か身を持って体験したい。
ということでした。(苦)
3度目は75%位取れたのでマークミスなしであれば、合格という感じでした。ということで結婚式場を見に行き、就職も決めました。
次は24名程度のちょうど今の会社と同じ規模の会社を考えました。
また、男性が少ないことも自分が任していただけることも多いと思い調剤薬局を選びました。
薬剤師になってから、すぐに働きました。GW付近ですごく忙しく今の自分に
できることは何なのか?を考えて動きました。
と言っても入社数日でできることは限られていました。
その後働かせていただき、本当に社長には可愛がっていただきました。こうしたら人は動くのだなあ、とも感じましたし、私が至らないところはアドバイスを頂戴しました。4年間勤務の中でエピソードはたくさんあるのですが、一つ。
調剤薬局というのは常に100点を取らなければならない仕事でした。そこでの調剤ミスがあり、管理薬剤師である私が薬を届けにお詫びに行った時です。
精一杯お詫びしたのですが、「殺す気か!」と言われました。もう15年以上も前なのですが、未だに思い出されます。
私自身薬剤師には向いていない部分もあったのですが、本当に単純な作業でも厳しい仕事だと心から思っております。
そのようなこともありましたが、本当に勉強になりました。上司の方にも恵まれて、とてもありがたかったです。
さて、4年間お勤めさせていただき松井商会に戻りました。
私が夢にまでみた、松井商会で親父と仕事をすること。夢が叶いました。
しかし、親父とは、毎日の様に喧嘩していました。
今考えてみると私が未熟だったです。
戻ってきてから一年が経ぎ、夏のある日に夕方母親から電話がかかってきました。父の検診の件で一緒に病院に行って欲しい。という話でした。病院では、父親が食道癌の初期と言われました。父にはそのまま説明してもらいましたが、嫌な気持ちになりました。というのも祖父も食道癌で亡くなったので、最悪なことにならなければ良いなあ。と思いました。元気が取り柄の父でしたから。初期だから大丈夫だと、話をして手術をしました。終わった後にぞっとしました。嫌な予感は当たってしまい、転移がありました。
手術から1年で亡くなってしまいました。最後はホスピスにいた時に「くやしいなあ!」と言ったのが心に響いています。
そうして31歳で社長になりました。
それから現在まで12年経ちました。ここの話は、エピソードがたっぷりありますが、一言で言うと自分が未熟者でした。
学ぶことはとても大切だと思います。4年前に別府市倫理法人会に入会し、それから、アクティブ・ブレインセミナーの講師になってからは特に、自分の言葉の深みを考える様になりました。
昨年からは、学ばせていただいております。

最後のエピソード3は又後日アップします。

この記事を書いたプロ

松井達治

記憶力が飛躍的にアップして、日常生活を変えるプロ

松井達治(暗記のたつじ)

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