今だからこそ大学院に行くメリット

井上博文

井上博文

テーマ:京都コムニタスとはどんな塾か?

京都コムニタスを創業して、20年に近づきつつあります。明日また年を取りますが、今年は「生まれて初めて」のことがたくさんありすぎて、まだまだ未熟さや改善していかねばならないことを感じますので、完成形に至るにはまだまだ先のことかと思い知らされています。そんな時に、いつも自分を助けてくれるのが、あらゆる分野の先人たちの声です。この先人たちの声をたくさん拾えれば拾えるほど、学識、教養の高い人だと言え、私も本当に野生児のような無教養な生き方から、いつしかコンバージョンして教養を身につけようと不断の努力をしてきたつもりです。その根っこにあるのは、やはり大学院で学んだことであり、学位取得以降の生活でも学ぶ続けることができる身体ができたことだろうと思っています。

毎日新聞が京都府内の就職率について報道しています。
こちら

「2021年春に就職を予定している京都府内の大学生の内定率(10月1日現在)は58・9%と、前年同期を9・8ポイント下まわったことが30日、京都労働局のまとめで分かった。短大生は29・3%と更に厳しく、前年同期を14・2ポイント下回った。」
とのことで、やはり就職は厳しい現状があると言わざるを得ません。私としてこんな今だからこそ大学院に行くべきだと思っています。

私が院生の時、大学院に行くのはちょっと変わった人というイメージでした。私もそんな目で見られていた印象があります。また大学院に入っても、正直言って、毎日雑用ばかりでした。学費で苦労したこともあって、何で学費払って、無償でこき使われなあかんねん。こんなことを言うこともしばしばでした。しかし、その時こなした仕事は、今になってみれば、経験したくても一生できない人の方が多いでしょうし、例えば、図書館のシステムや、大学の予算配分がどのようになされるのかということも知ることができました。また、図書館の本の発注を任されると、図書館にどんな本が入っており、どんな本が足りないか、これから、国内外でどんな本が出るか、出たかの情報を得ることもできました。また、私が院生の時にはまだ、図書館のプロがおりましたので、その方と、図書館や本について長時間話すこともでき、これらは本当に得難い経験でした。また、私の研究室は、先輩が優れており、十年は安泰のシステムができていました。それを直上の先輩が、補強し、私が責任者になった時にはとても仕事がしやすい状態でした。そのようなシステム構築、維持、次世代への伝達は院生として、ある意味では小手先の勉強よりも重要なもので、私個人としても、この時学んだことが塾運営に多いに活きていることは間違いありません。

私は大学院に行く意義はたくさんあると考えています。特に大学院では素人離れした特殊技能を身につけることができます。もちろんどの程度身につけられるかは、人によって異なりますが、その能力は、一生のものになります。そのような技能は大学院でしか手に入らないものが大半です。そしてその技能は、いかなる時代が来ようとも誰にも奪われることはないもので、生涯の宝になります。

1991年以降、大学院重点化が行われ、大学院の定員が大幅に増えることになりました。この政策は失敗であり、大きな問題を抱えているということを痛烈に批判するのが、水月昭道氏の一連の書籍『高学歴ワーキングプア』



『ホームレス博士』です。



私はこの二書の考え方に全く賛同しません。正直、著者が誰に向けて訴えかけているのかが全く見えません。食べられない博士の窮状をドキュメントしているのは、一定の共感は得られると思いますが、それが何かよい方向に向かうとは思えませんし、国が博士たちの就職先を斡旋するかというとそうでもないと思います。またそんな義務もありません。

しかし、一方で、就職できない博士が大半であることも否定できません。私が知るだけでも社会的最弱者の博士はたくさんいます。つい先日も40歳半ばの博士から
「俺、年金ないし、国保も払えん」
と切実な相談を受けたばかりです。

院卒者が普通に就職していくにあたり、最大の障壁は今の「シューカツ」システムですから、これを打ち壊すことが必要ですが、これをするのは、これから大学院を出る人たちの結集したパワーができて始めて変わると思います。そのためには、私は、大学院に行く人がもっと増えれば良いと考えています。別に研究者の数を増やさなくても今の時代、大学に行くのが当たり前なように、最低でも修士課程に行くのが当たり前の時代がくれば、様々な旧態依然システムが壊れ、本当の意味で時間をかけて勉強をしてきた人材が噴出するようになると信じています。

少子化の時代を受けて、私立大学が生き残りをかけて、大学院を拡充することは何も間違っていません。行くか行かないかは学生が決めることで、その点は高校から大学に進学することと同じ理屈です。魅力があれば行くでしょうし、なければ行かないでしょう。つまり、大学院拡充によって、院生が増えたということは
一定の魅力があったという証左といえるのです。それでは、大学院にどんな魅力があるのでしょうか?ホームレス博士になった人たちも、何かを夢見て大学院に行ったはずです。相応の魅力があったはずです。当然、リスクはあります。それはどんな世界でも同じです。大学院に行くリスクは、まず「年をとる」ことです。
こればかりはいかんともし難いリスクです。特に女性にとっては出産の問題とも絡みやすい年代ですのでその年代の女性に優しいとは言えない世界です。それでも当塾には育児を終えて、子どもも独立したので大学院に行きたいという希望を持ってこられる方はたくさんいます。それだけ、学ぶことに魅力を感じている人は多いのです。年齢を重ねてから大学院で学ぶことの意義を知るには内舘牧子氏のこの本がおすすめです。



意外に知られていませんが、大学院に行くに当たり年齢制限はありません。いくつになっても、行けるのです。そして、大学院でしか得られない情報と最新の方法を獲得できることが、メリットの第一といえるのです。日本国内では、理系は大学院に行くのが当たり前になっています。しかし、文系については、まだまだ大学院に関して、ネガティブな印象も少なくないようです。なぜ、ネガティブな印象を持たれるのかについてはいずれ検証してみたいと考えてはいますが、やはり、教育する側にもされる側にも問題はあると思います。しかし、繰り返しですが私が考える最大の問題は、日本の「ガラパゴス的シューカツ」という奇怪な制度だと思います。根本的に構造を変えないといけない典型と言えます。大学生に勉強をさせないシステムをこんなに全力で維持している国はないと思います。コロナとともに去ってくれると良いのですが。
企業も優秀な人材が欲しいのなら、プロ野球のスカウトのように早い段階から目をつけて、スカウトできるような制度にした方が良い人材が確保できるはずです。大学も企業のスカウトマンが自由に出入りできるようにしておけば外部のシビアな目にさらされるわけですので、緊張感が増すでしょう。そうすると必然的に学生は勉強するようになるでしょう。(それでもしない人もいるでしょうが)
『ドラフトキング』というマンガがありますが、スカウトマンの卓越した眼力には感動さえ覚えます。しかしスカウトマンはスポーツ界では一般的ですが、それ以外ではあまり目にすることはありません。企業のスカウトマンが大学にいると思えば、学生ももっと勉強するようになるでしょう。学生が勉強するようになれば、大学院に進む人も増えるでしょう。少し変化をつけるだけで、良い循環が生まれるはずなのですが。今のシューカツシステムで誰が得をするのでしょう?不思議でなりません。実は勉強をしたい大学生は多いのです。先日、京都文教大学に出張講義をしに行きましたが、どの学生さんも熱心に勉強していました。また当塾に来る大学生は、ほぼ全員と言ってよいほど「勉強したい願望」を持っています。大学院は、雑用や小間使いもありますが、それも含めて、学問と社会の両方を十分に学べる場所です。企業に入ってしまうと、その企業の論理でしかものを見ることができなくなりますし、それで当然です。しかし、大学院は必ずしもその大学の論理に染まる必要はなく、ニュートラルな立場を維持したまま、学問と社会を学べるという実は数少ない場なのです。

また大学院に行くと学会活動ができます。これは大学院に行かねば、ほぼ経験できないことです。中には学部時代から経験できることもありますが、そういう人は結局大学院に進むと思います。私が始めて学会に出たのは、修士課程1回生の時ですが、本でしか見たことのない名前が、名札越しに次々と見えます。頭をきょろきょろさせて、ビッグネームを探していたことを今も鮮明に覚えています。変な表現ですが、アイドル歌手を見ている気分でした。またその有名人の最新の研究成果をリアルタイムで見ることもできます。もちろん、最初は何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたが、徐々にわかるようになってきます。また、ハンドアウトの作り方、時間配分の仕方、たまにはギャグの差し込み方に至るまで、様々なことを学ぶこともできます。また学会の標準的な言い方、参考文献の書き方、校正の仕方などは、まず大御所のものを真似るところから始まります。私も数名の先生の方法を真似て書いていました。こうして、学会活動をすることで、特に駆け出しのころは、真似ることから始まって、多くのことを身につけていくのです。料理人が師匠や先輩の技術を見て盗んでいくのと同じようなものに相当すると思います。

また大学院に行って学ぶことで、「発見」の意味がわかります。研究と勉強の違いを語る時、研究とは何らかの発見が必要ですが、これがなかなか難しいし、誰にでも平等に発見が訪れるわけではありません。だからこそ大切なのは、その発見に至るまでのプロセスの積み重ねということになります。例えば、遺跡発掘現場に行って、穴を掘ると何かしら出てきます。そこでなにやら漢字らしきものを書いた木簡が出てきても、その漢字の意味が分からなければ「宝」にはなり得ません。ただの木くずでしょう。研究のすごいところは知識がなければただのゴミでも、知識を得ることで大きな価値を与えることができるということです。美術品が時として、驚くほどの金銭的価値が付けられるのもこうした理由で、例えば「モナリザ」と言ってみても、それを研究し、いかに価値が高いものであるかを証明する人がなければ、ただの絵にすぎず、贋作がでることもないでしょう。ガンダーラから出た、世界最古の仏像でも、贋作がたくさんありますが、それも世界最古という付加価値をつける人がいるからです。研究をある種の宝探しに喩える人が多いのですが(私もそう思っています)、実は宝探しや探検隊というのは、膨大な知識量と経験と価値を見分ける目を持った人物にしかできないことなのです。大学院にいくと、ものの付加価値がついた経緯、見分け方、これから価値がつくであろうもの、これらを専門的に学ぶことができるのです。これは大学院でしか養えないことです。

また大学院に行くと、物事を深く追求することができます。正確には、「深く」という言葉の意味がわかるようになると言えると思います。深さというのは、一つは、「疑問の連鎖」と言って良いと思います。一つ発見や気になる事が見つかると、様々な疑問に形を変えていきます。例えば、794年に平安京に都が遷りますが、奈良から直接移転したのではなく、784年に長岡京に一端移転しています。そうすると「何故長岡京?」「何故長岡京には10年しかいなかった?」「いつ長岡京から京都に移転することが決まった?」「長岡京は何が不都合だった?」などなど挙げればきりがないくらい挙がります。この疑問の一つひとつには回答(仮説)があり、その回答も一つではなく、たくさんの回答があります。それが「説」であり、その「説」にさらなる疑問を重ねていくという作業が、数え切れないくらい繰り返されて今に至るのです。その集積を学び、身につけることが教養と言えます。

政治家の発言が劣化していると言われて久しいですが、物事を深く追求したことのない人物が軽率に発言するとすぐに「負の連鎖」が始まります。当然、政治家の発言は様々なメディアを通して、世界中に発信され、それらに対して数え切れない人が、数え切れない感慨を持ち、数え切れない分析がなされます。仮にその結論が「この政治家は教養がない」というものであれば、その政治家は政治生命が絶たれたと言えるでしょう。海外の政治家で、特に主要国首脳会議に参加するような国の政治家は哲学を深く学んでいる人が多いそうです。特に自国の歴史を形成する哲学を知ることが自国の利益を守ることにつながると考えるそうです。よくロビー活動と言われますが、非公式外交交渉だけではなく自分の教養を披露する場でもあるのです。当然、教養の低い政治家と高い政治家では、どちらと付き合いたいかは言うまでもありません。明治の政治家はとにかく西欧化することが、日本を世界と対等な国家に押し上げると信じて疑いませんでした。だから、西欧の文化、芸術、風俗、習慣を学び、真似るところから始めました。その是非はともかく、日本が西欧化し、良くも悪くも近代化の礎になったことは間違いありません。そして良くも悪くも謙虚に相手のことを学んだわけです。当時の政治家は、国外に向けての発言は慎重であったことは言うまでもありません。それは、むしろ自国の現状をよく認識をしていたからに他なりません。
翻って、今の日本の政治家は、与野党ともに自国の現状を理解しているとは思えません。今の日本が世界からどう見られているのかを認識せず、教養のない発言を繰り返すことこそが、横暴な隣国にさらに勢いを与えていることを知る必要があります。私の持論の一つですが、せっかく法科大学院があるのですから、弁護士養成のためだけではなく、政治家が教養を身につける場にしてはもらえないものでしょうか。もっと政治家になるには厳しい適性試験に合格してからでないといけないはずです。

私自身の経験として、大学院に行っていなければ得られなかったものはたくさんあります。その中でも重要だと思っているのは、「見る目」です。世の中には、いまや数え切れないほど「●●学」があり、大学生になろうと思う人は、まずこれを選ぶことからして、大変なくらいに選択肢があります。その●●学には、それぞれ「見るべき箇所」があり、それに関する情報の集積があります。今は、情報過多の時代ですので、その情報はもはや紙媒体では保存しきれなくなっています。だから東大も新しく巨大な図書館を建てていますし、デジタルの割合を高めて、これからの情報過多の時代に対応しようとしているようです。そうなってくると、それだけ氾濫した情報から自分の欲しい情報を見つけることは、検索というより、もはや捜索の域にきていると思います。となると、自分が本当に探している情報に出会うには、よほどの見る目が必要になってくるということになります。それは、大学院生以上だけが特別に必要な目ではなく、情報過多は世界中の人々にとって同じですので、誰にとっても必要な目ということになります。やはり大学院で専門教育を受けて、情報過多の現代に相応しい見る目を獲得する必要があります。

大学院に行くと、意外に行った本人は気になりませんが、いわゆる高学歴になります。これはメリットかデメリットかで考えると少なくとも私はデメリットになったことはありません。よく、高学歴の方が就職がしにくいという話もありますが、それは今の膠着したシューカツシステムに多大な問題があるからであって、高学歴のせいではありません。変な話ですが、私の名刺には「博士(文学)」と肩書きを入れています。それを見て、「すごいですね」と言われることはあっても否定的なことを言われたことは一度もありません。学位を取ることは時間もかかりますし、手間もお金もかかります。しかし、誰でも取れるわけではありませんし、自己満足であるにせよ、自分の何かの証にはなります。まして、今の私の仕事には学位は必要不可欠なものです。
中には修士号も持っていない大学院専門予備校の経営者もいます。私たちは生徒を、最終学歴
「大学院修了」とするためにいると言っても間違いではありません。
その意味で、損得勘定だけで大学院に行くのではなく、かつ「シューカツ」なる悪しきシステムを中心に自らの学べる可能性を排除することなく、かつ、知性や教養のない政治家と同じような
発言をすることがなく、自己を成長させることができるのが大学院です。行って、損することは
実はほとんどなく、得をしたと思えるのは30歳をはるかに超えてからかもしれませんが、平均寿命が80歳になる現代では、人生を長期的に見る必要があり、長い人生に豊かな彩りを与えてくれることは間違いないと思います。また、金銭的に多額の金額がかかるということもありますが、奨学金のあり方も変化する兆しが出てきております。私は修士課程と博士課程で結構多額の借金になりましたが、それでもなんとかなりました。十分に投資する価値があったと思っています。

これだけの投資をしても、価値があったと思えることは「自分の意見を持てる」ことです。
無教養の欠けた政治家の無軌道発言に対して自分なりの意見が持てることは重要なことです。20代の時は、自分なりに思うところがあっても、ほとんど意見を表明することはなく、結局多数意見が正しいという認識を漠然と持っていたこともあります。しかし、大学院を出て、ある程度年齢を重ねると誰の意見にも左右されない自分の意見を形成することができるようになってきます。また自分の意見に明確な根拠をつけることもできるようになり、さらに根拠がなければ、自分の意見として表明することに慎重な姿勢も身につきます。

前の大阪市長の発言は学術会議に対して軽率な発言を繰り返していますが、
こちら
彼は歴史家ではありません。研究者が嫌いなのでしょうが、結局彼が作った大阪都構想という名の大阪市解体論の「メリットの数字」は「学者」が算出しています。結局のところ、自分たちに都合のいいところは学者の「権威」を利用して都合が悪くなると、学者否定をするというダブルスタンダードに過ぎません。反対意見を無視して、自分の都合の良い解釈だけを披露して、それが全部正しい。間違っていると言う人間は敵で、自分の考えが伝わらないのはメディアのせいであるという理屈は、もはや大人の理屈ではありません。
彼が馬鹿にし続けてきた「学者」の意見をしっかり聞き、今の総理大臣が言うように研究者に委ねるのが正しい姿勢に思いますが、教養を軽んじてきたツケというのは、いついかなるときに出てくるかわからない典型と言えます。

以上、様々な角度から、大学院に行くメリットを述べました。行って害になることはほとんどなく、終わってみれば良いことだけが自分に残るという観点から「メリット」という言葉を使いました。これから大学院を目指そうという若い方々に是非参考になればと思っています。




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井上博文(塾講師)

株式会社コムニタス

塾長以下、スタッフが、全ての生徒の状態を正確に把握している。生徒をよく観察し、成長度合、どのような不安や悩みを抱えているか、をしっかりと観察し、スタッフ間で情報共有をしている。

井上博文プロは京都新聞が厳正なる審査をした登録専門家です

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