知恵ある人になるには?
1月17日は阪神大震災の日です。
私は、震災について、自らが直接経験したからこそ、毎年このコラムで触れるようにしています。阪神大震災はもはや歴史の話ですので、できる限り記憶と記録にとどめて、若い世代に伝えていきたいと思っています。
一方で、ちょうど1年前トンガで大きな地震がありましたが、きれいさっぱり忘れている自分がいました。やはり当事者でもない限り、そこの人々の痛みを知覚できずに、所詮他人事と思っているのかもしれません。
この日、大学で仏教の授業をしてきましたが、奇しくも当事者意識の話を入れました。震災でもコロナでも、他人事になってはいけないと感じています。仏教は、この世は苦で出来ていると言いますが、気合いと根性とスローガンで言っているわけではありません。科学的に検証した上で言っています。私たちは人間ですが、物質でもあります。では人間ではない物質との違いは何かと言えば、感覚器官の有無です。少なくとも人間は(多分の他の生き物も)感覚器官で「感じる」ことができます。物があれば「触れる」ことができて、触れたと感じて、「気持ちいい~」「気持ち悪い~」とか感じます。例えば目隠しをして急に冷たい物に触れさせられると、なんらかの大きな感情反応があるでしょう。その場合、触れたものが仮にとてもおいしい食べ物であったとしても「気持ちいい~」にはなかなかならないものです。ということは、我々の感覚器官は、不快の方が感じやすくなっていて、「知覚」に対する「解釈」がなければ「快」を感じにくくなっているようです。その「解釈」も不合理だとイラショナルビリーフですから、さらなる不快な感情を喚起してしまいます。だから無防備の状態だと大抵は不快になるようにできていて、私たちは防備をして解釈をして、解釈を重ねて、都合の良いことを並べて、なんなら無意識の抑圧にも手伝ってもらって、はじめて快を感じることができるのです。快を感じるには、かなりの手続きを要するということです。
だからこそ、震災、コロナなど、戦国時代は暴力集団、冬将軍、現代はアホの政治禍、腐りきったマスゴミなどなど、私たちではどうしようもない災害が、好む、好まざるに関わらずやってきます。私たちは、学習性無力感のようになってしまうのではなく、これでもかとばかりに押し寄せる不快な刺激に対して、関心を失わず(いちいち立ち向かうでもなく)、感覚器官をフル活動させて、理解と解釈を深めて、不快を乗り越えていく必要があります。それには当事者意識を持つことが必要で、当事者意識とは、仮に遠い場所に起こった刺激でも感覚器官を発動させて、何かを感じ取ることであり、何かとは残念ながら基本的に不快なもので、それを不快でなくす手続きを考えることということになります。
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